4.タンザニア国境の街、再びムンバイへ(5/4-6)



 アフリカ最終日。
 夕方にはナイロビ空港に戻らないといけない。

 朝、ロッジのスタッフと、昨晩のマサイ族の村を訪ねることにした。
 昨日のパーティの時に、マネージャーが、
「やはりこれからはローカルピープルとの間の交流や協力が必要ですよ」
みたいに言っていたのが、ちょっと印象に残ってたからだ。
 で、このロッジでは、マサイショーをやったり、お客を連れてったりもしているらしい。

 村の代表者に渡す「入場料」は、20ドル。
 けっこうがめついなと思ったが、病人が出たりした時のための共同の蓄えにしているという。

 


 観光客が来るといっせいに歌と「ジャンプ踊り」が始まった(上の写真中央)。
 なかなかに迫力がある。
 「マサイ族は誇り高き人たちなので、正装以外の時に無断でカメラを向けてはいけない」とか言われていたのだけれど、ここではそれもオッケー。
 けっこう皆、人なつっこい。
 家に入れてくれたり(同左)、火おこしを見せてくれたり、
村の長老たちに「キャスタ−マイルド」をプレゼントしたりと(同右)、
まあちょっとした「交流ごっこ」を楽しんだ。

 「キリマンジャロの石を拾ってきて」と頼まれていた「なごみサミット」ちゃっぴー副会長のために、
一応、山が見えるこの村の石を数個、おみやげに持って帰ることにした。


 で、はいおしまいと思ったら。

 何と村の出口の向こうが、いきなり観光客向けの「マーケット」になっていた。

 少しげんなり。

 他のグループで来ていた、白人どもは断固買おうとしない。
 これはこれで、立派な態度だ。
 で、しょうがないから、僕が数点買った。(イヨッ、日本人!)

 


 チェックアウト後、今度は車をチャーターし、タンザニア国境の町・ナマンガヘ。
 ロッジからは50キロほど。

 国境の町のいかがわしさって、僕は割と好きだ。
 ビザを取り、国境を越えて、一応タンザニアで昼メシを食った。

 


 

   ↑ これが一応、タンザニアだぁ ↑


 午後、乗り合いタクシーでナイロビに戻った。
 200キロを2時間半で走って400円!
 まあこの庶民感覚に慣れれば、アフリカって本当に暮らし易い所だろうな。



 さて。
 アフリカでは、今でも部族単位の文化の存在が大きい。
 多い国は、数千もの部族に分かれてるっていう。

 で、例えばたいていのケニア人は、公用語のスワヒリ語と合わせ、
旧宗主国の英語、そして各部族の言葉を話すことができる。
 学生やビジネスマンが宴会なんかをすると、
最初のうちとけた会話はスワヒリ語だが、
政治経済なんかの話は、彼らが教育を受けた英語抜きには成り立たず、
そして、酒が回ってくると同じ部族の奴らは部族語で盛り上がり、
他部族間では「共通語」としてのスワヒリや英語でコミュニケーションを取るって感じらしい。


 あと。
 アフリカ人って、結構人がいい。
 部族の伝統的教育の成果か、あるいは大地の恵みとともに生きて来たからかは分からないが、
皆、とってもいい奴で、アジアみたいなワルは少ない。


 でも。
 逆説的に言えば。
 だからこそ彼らは、長い歴史にわたって他国に「支配」され続けてきたんだろうな。

 古くはヨーロッパ各国、新しくは米ソ両陣営や、資源を扱う日本商社なんかに。


 アフリカ問題の根本って、
結局は「部族単位の文化」や「人のよさ」が、所詮は、
団結や進歩や経済や国際化やら、鉄砲以降の武力闘争とかとは相入れない面をもつ、
ということに尽きるんじゃないかって気がした。




 ナイロビへの途中にも、いくつかのマサイ族の集落があった。
 男が来ている服が皆、「テ−マカラ−(?)」の赤だっていうだけで、まあ普通のロードサイドの村と同じだ。
 商店が並び、皆、けっこう資本主義をやっていた。

 均質化した地球って全然おもろないから、
マサイ族、もうちっとがんばれよみたいな感じで、
一抹の寂しさは禁じえないけれど、やっぱり現金や物質文明って「麻薬」。

 もちろん山の中とか行けば、「正しい」生活してる奴らもいっぱいいるのかも知れないけれど、
結局は、彼らそれぞれが
自らの文化と他からの文明に、
どんな折り合いをつけていくかっていう問題でしかないんだと思った。

 3言語会話みたいに。


 ちなみに、ケニアの紙幣には現役大統領の肖像が入っている。
 まあ本当は、これってちょっと反則気味じゃ? という気がするな。



 午後、ナイロビ国立公園近くを通って、市内に戻って来た。
 同公園は、国際空港にも近いので、トランジットだけの人にもおすすめかも知れない。

 夕方まで、フェアビューホテルで時間をつぶした。
 このホテルはすっかり、僕のアフリカ旅行の「拠点」となった感がある。
 旅が終わりに近づき、ビデオテープが逆まわしになっているような感覚を覚えた。




 


 ナイロビ空港に、懐かしい顔があった。

 ツアーメンバーそれぞれにとっても、いい旅だったようだ。

 深夜にムンバイ着。
 来た時と同じホテルに入り、湿ったシーツに身をくるんだ。

 翌朝。
 淳子嬢、洋美嬢とともに、数時間の市内観光。
 カレーとラッシーが、ものすごくうまかった。
 洋美嬢がサリーを買った。
 「よりによって」、結局は僕が薦めたのとは全然違うヤツを。


 で、夕方の便で東京へ。
 到着は明朝だ。



 と言うことで。
 まあ。

 とりあえず、アフリカがものすごく暮らし易い所で、
よくも悪くも、
僕たちが住む所と、全く遠い世界ではないということは分かった。


 アフリカ>アジア>沖縄>オセアニア>関西>その他の年中暖かい国>北米>東京>ヨ−ロッパ>その他の寒い国>イスラム。

 これが一応、2001年5月現在の、
僕の新しい「老後の居場所」ランキングになった かなって気がする。



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