悲劇はこのホテルの前で起こった
唯一、観光で訪れた統一会堂(旧大統領官邸)
75年4月30日、解放軍の戦車がここに突入し、ベトナム戦争は事実上終結した。
「ベトナムはい-よ-。あんなに人がよく、居心地のいい国はない」
世界中をあちこち旅してる複数の人から、そんな言葉を耳にしていた。
で、95年の年末休暇を早めにとって、ソウル経由で行ってみることにした。
今はなき「四季の旅社」で切符を手配。
サイゴン(ホ−チミン)に着いたのは夜の12時くらいだったろうか。
タクシ−で街の中心部にあるホテルに入った時には、もう2時を回っていた。
フロントのお姉さんたちは、皆美人でつつましやかでやさしそう。
噂はまんざらウソでもなかった。
何だか昔の日本にきて感激している外国人みだいだけど。
部屋の窓からは広場が見え、少し先にはネオンが輝いている。
ガイドブックで調べてみると、どうやらここは街のド真ん中らしかった。
前夜、ソウルで友人たちと遊びまくったので、もう眠い。
でもちょっとだけ、あのネオンの所まで行ってみるか。
で、悲劇はその3分後に、あっけなく起こった。
(以下は帰国後、怒りをもて余して投稿した96年版「地球の歩き方」からの引用)
自称「アジア通」の私はこの10年ほどで、ほとんどのアジア諸国を訪れた。
そんな私もベトナムで、初のスリ(スラれ)を体験。全財産とカ−ドを失い、一文無しになってしまった。
95年の暮れ、深夜にホ−チミン市着。ホテルに無事チェックインし、5分くらい町をブラブラしに出かける。
もちろんパスポ−トはセ−フティボックスに。ひったくりが多いというからバッグは持たない。
ジ−パンの前ポケットにサイフを入れて準備完了。「人通りも少ないし、スリに遭うことはないだろう」。
ホテルを出て100mくらい離れた市民劇場へ向かう。
ベトナム体験3分後、付近には1人の少年が立っているのみ。
悲劇はこの時に、実にあっけなく起こった。
少年が身体障害者の物乞いを装い、私の方へ近づいてくる。
不自由な(?)右手は「金をくれ」とばかりに私の右目のあたり。
目を見開いた障害者らしき顔も私の右耳のあたり。訳の分らない大声を出している。
「うるさい、No! No!」。
その時、不吉な予感が走った。
(手品のようなもので、私の注意は右半身に集中してしまっていた)。
「ヤラレタ!」
左前のポケットを押さえると全財産を入れたサイフがない。
少年が下から左手をクロスして抜き取ったのだ。
「お見事!」
なんて言ってる場合じゃない。
逃げる少年、追う私。
これでも元陸上選手で足には自信がある。
20mほど先に、少年の相方がバイクをふかして待っている。
追いついた!
しかし何ということか。そこにはモデルガンのようなものを構えた相方の姿が・・・。
「まいった!」
(中略)
彼らの手口、組織は他国とは別格。
香港やインド、バンコクなどとはケタ違いの「プロ」なのだ。
(物価水準も違う。1回スレば、うまくいけば5年以上は暮らせる。動機?も十分だ。)
手先が異常に器用。一人一人がただ者ではない。
(何といってもここは、ベトナム戦争に勝利した国なのだ。)
手品のような心理作戦、最悪の際のモデルガン(?)といった周到な準備に、それらが垣間見える。
何より最大の問題は、取り締まる人がいない(らしい)ということだ。
「警察までグルなんだから」ということを何人かから聞いた。
スリを泳がせ、上がり分の分け前にあずかるということらしい。
私の場合も夜中の2時というのに、すぐ近くに私服の警察官が居合わせ調書をとってくれたが、今思うとそれも不思議な話だ。
要するにこの国では、盗難に対する治安はゼロに等しい。
なめてかかると大変な目にあいますよ。(誰かさんみたいに)
ということで、( )内の文章は編集部によりカットされちゃったけど、とにかくヒドイ目にあった。
で、いちいち書かなかったけど、それからの交渉はもっと最悪だった。
まず、前述のおまわりの所で調書とってもらった。
盗難証明くれって言ったら、何だそれって言われた。
で、ホテルに帰ってきて、チェックインの時にニコニコしてたフロントのお姉ちゃんたちに事情を話してみた。
「カ−ド番号は分ってるんだけど、あとでそこから引き落とすってできる?」
そしたら態度一変。
「警察行ったのか」「どうしてセ−フティボックス使わなかった」「そんなトコにサイフ入れとくからだ」。
要するに、関わりたくないって態度がありあり。
でも敗因分析はもういいよ。そんなこと自分が一番よく分って、後悔してるんだから。
この時、一つの謎が解けた気がした。
この冷たさはA型の「アレ」だ。
「ベトナムよかった」って言ってた奴等も、今思えば皆A型だよ。
多分、この国は日本同様、数すくないA型支配の国なんだ。
こまかいことや組織行動も得意そうだし。
ベトナム戦争の時にも、村単位で戦うし、少なくとも「守り」は異常に強かった。
のくせに、結構あっさりしていて、もうアメリカとの間にも、あまりわだかまりないみたいだし。
ふむふむ。
なんて分析してる場合じゃない。
とにかくオレは一文無し。この国で一番貧しい人間だ。
メシはル−ムサ−ビスがあるので飢える心配はないけど、今の所、支払えるアテがない。
せめてもの救いは、パスポ−トと航空券があること。
でも、こんな都合のいい時だけ日本国に頼るのはみっともない。
それと航空券あっても、どうやって空港まで行くんだよ。
で、部屋からの国際電話でカ−ドを止めて、ひとまず寝ることにした。
一瞬、「ロンドンでカ−ドなくしたんですが」「ご安心下さい」っていうアメックスのコマ−シャルを思い出して、これは行けるかもと思い、再発行できるかどうかも聞いてみた。
「再発行できます」
「どこで?」
「あいにくサイゴンには支店等ございませんので、ソウルかバンコクでお手続き下さい」
(だから空港に行くバス代もないんだってば)
あ-あ。もう空が白んできたぜ。
明日はともかく盗難証明を貰うのが先決だ。まずはホテルの従業員で、少しは英語ができるO型みたいな奴を探そう。
翌朝。
「O型」は割と早く見つかった。イイ人だった。一緒に警察に行ってくれることになった。
で、タクシ−拾って警察に着いた。
降りる時、彼がタクシ−代のことを「OOドン」だと言っている。
だから-、オレは一文無しなんだってば。
とたんに空気が凍った。
「あとでお礼と一緒に返すから」って言ったけどね。(もちろん返した)
でも待ってる時間も含め、あとの2時間くらい、彼はずっと無言。全く気まずいぜ。
昼に帰ってきて、まずは大阪の「四季の旅社」に電話。
「帰国したらすぐ返すから」って言ったら、「今すぐ振り込んでくれないと貸せない」と言いよった。
そいつは今回の手配でいくつかミスを犯し、こちらは「まあいいよ」で済ませてやってた奴だった。
で、「何で明日の振込みじゃいけない」とか何とか、さんざんもめた。
会社の皆は、年末最終日の仕事でバタバタしてる時期。仕方ない、親に借りようと思い、実家に電話した。
実家の近所には銀行などなく、おまけに日本はその日、大雪だった。
で、「やっぱり明日かあさってにしてくれ」と再度頼んでも、「四季旅」野郎は「振込み確認後でないと貸せない」の一点張りだった。
で、たった2万くらいの金のために何度か実家と四季旅に電話をかけた。
翌日の午前中もだいたい同じ調子だった。
雪はまだひどいらしい。おまけにオヤジがカゼひいた。
オフクロは約束はあるが、ギリギリ電信扱いの時間までには行けると言ってる。
が、いい年寄りに、大雪の中、バスで、オヤジをおいて5キロも先の街なかまで出てくれとは言えなかった。
で、仕方ないから会社にも連絡した。
実は会社には日本旅行からの出向の人がいて、その人が、日旅から現地のエ−ジェントに言ってやると申し出てくれた。
これで最悪のケ−スはなくなったのだが、でも、一緒に働いているにも関わらず、オレは日本旅行の人には黙って他の旅行社を使って旅行している。
ちょっと仁義に反するので、結局、会社でまだ受け取っていなかった精算分の金の中から、2万円を夕方、スタッフに四季旅までとどけてもらうことになった。
それにしても、旅行社というのは一見、大手も中小も関係ないみたいだけど、いざという時の対応が全然違うってことがよく分った。
大手の方が少し高いのは、そういうコストなんだなって。
小さい所は送客数も少ないから、現地のエ−ジェントにも無理が言えない面もあるんだろう。
にしても、「四季の旅社」の取りたて方は、はっきり言って異常だった。
ちょっと許せない感じがした。
で、後年、奴らが倒産した時に、オレは声をあげて笑った。
翌日の昼、現地エ−ジェントの人が200ドルもってやってきた。
こちらの支払いはこれで済ませて、あとはソウルでカ−ドを再発行してもらおう。
一件落着。
あのスリの野郎、まだ顔覚えてるぞ、見つけたら半殺しにしてやるって、
昨日の夜もずいぶん「捜査」したけど、もうや-めた。
気にいらない国だけど、せっかく遊びに来たんだもの。
それに四季旅のあいつのことも、もうわ-すれたっと。
そうそう。
あといくら使えるか、一応フロントに電話代だけでも聞いとこう。
「いや-、大変だったけど、何とかなったよ。で、国際電話、いくらになってる?」
「なに-。にぃひぃやくごじゅうどる-??」
何でそんなに高いんだよ-と、みっともないけどオレは声を荒げた。
美人のおねえさんは「こんなにかけるからです」とか何とか、シレッとしてやがる。
怒りを表に出す人ってこの国では一番軽蔑されるらしいけど、一瞬、何かが頂点に達した。
それにしても。
一見、落着したかと思ったのに、何ってこった。
また事実上の一文無しだ。
会社も今日から冬休みだぜ。家にまで電話して、もう一回なんて言ったら笑い者だろうな。
かといって、このうえ親や四季旅になんか電話できるかよ。
とはいえ、普通は今日が御用納め。この午後に決着つけないとヤバイかも。
で、喫茶店みたいな所でメシ食べながら作戦練ってた時に、5歳くらい年下の日本人カップルが入ってきた。
世間話をしてる時は感じのいい人たちだった。
それで、「スリには気をつけた方がいいよ」とか言ってたまではよかったのだけれど、
さっきの「250ドル」のいきさつを笑い話でしたら、こりゃヤバイと思ったのかス−っと引いてって、逃げるように店を出てった。
何なんだ、オレは厄病神か?
乞食じゃあるまいし、日本人観光客の同情かって助けてもらうのも何だかみじめ。
そこまではやりたくない。
できれば、普段つきあいがある会社を探そう。
で、住友銀行の支社を見つけた。
応接みたいな所に通されたので、パスポ−トを見せ、お宅の銀行口座調べてもらえば金あるの分ると思うんだけど、何とかならない?って聞いてみた。
するとこいつも何だかんだと逃げを打ってきて結局駄目だった。
情けないけど、時間もない。
こんな時にだけ頼るのは嫌だと思ったけど、もはや「菊のご紋」にすがるのがベストの選択と思えた。
領事館は大掃除の最中だった。
玄関先に水をはって、しめ縄をつける所だったから、もう終盤戦と言ってもよかった。
時計は4時半。何とか御用納めには間に合った。
貸付け専門官みたいな人に3万くらい借りた。
プライドは傷ついたけど、まあ仕方ない。
この国には、もう2度と来ないだろうから、見納めにあと1日、観光して帰ろう。
結局、帰国してからも「そんなトコにサイフ入れとくからだ」とか「慣れてると思ってる人ほど危ない」とか「そんなトコ行くからだよ」みたいなことを言った人は130万人位いた。
だが、少なくとも今回の件に関しては、具体的に何かをしてくれたのは、肉親と会社関係者と「菊」関係だけだった。
最後の最後、自分を本当に守ってくれるのは、結局、この3つとお金だけ。
もちろん、友人という存在だってあるし、今回も言えばいろいろしてくれたとは思うけど、
仮に、本当にお金に困ることがあったら、多分、助けてくれる人はとても少ないんだろうな。
お金の話って、本当に別物。
遅まきながらそれらのことをインプットできたのが、
この情けない旅の、唯一の収穫だったのかも知れないと思った。
「世界の街から」とびらへ
ホームに戻る