皆さんこんにちは。
 昨日まで台風が来ていたということで、今日の講演が中止になるかも知れないという噂がありまして、そうなったらええなあと思っておられた方も、さぞかし少なくないと想います。
 実は・・・僕もそうです。

 まあ、そんなこんなも含めた何かの巡り合わせで、この場に立たせていただくことになりました、29回卒業生の井戸智樹といいます。

 29回生ですから、先生方の関係で言うと、昨年まで東高で化学を教えてた田靡君が同級生でして、彼は野球部のキャプテンでした。
 当時は夏の県大会が甲子園でも試合があったんですが、負けた後、砂を取って、ニコニコ笑って記念撮影してきてたのを覚えています。

 僕は陸上部だったんですが、今、顧問をされている谷本先生は、高校は違いますが、 1年の時に3年生。インターハイにも出られたすごい先輩ランナーでした。「谷本さんは足を冷やさないため夏でもパッチをはいている」という噂がありまして、それはすごいということで、僕も真似しました。
 3日しかもたなかった記憶があります。

 今日、学校で何か話せというお話は、その陸上部の先輩で、おまけに大学まで一緒だという、英語の井上先生からいただきました。
 先輩命令には逆らえません。

 で、まあ何を話そうかなあと考え始めたのが1ヶ月ほど前なんですが、ちょうどオリンピックをやっておりまして、卓球の愛ちゃんが試合後、「勝ってよかったですね?」とか聞かれて「そういう綺麗事じゃないです」と答えているのを見ました。
 あの子はやっぱりタダ者じゃないですね。
 で、自分が高校生の時のことを考えますと、「一生懸命勉強すればいい人生が待っている」とか「青春は素晴らしい」とかいう綺麗事の話をしても、実際にはあんまり、皆さんの参考にはならないんじゃないかという気がしました。
 なので、僕も今日は、できるだけ本音の話をしたいと思っています。

 何年か先に、皆さんのうちの何人かが、あの時の話のあの部分に関してはちょっと参考になったなと言ってもらえるようにするのが、本日の僕の目標ですので、どうぞよろしくお願いいたします。


 今日はまず前半部分で、自分が今やっている仕事についてお話ししようと思います。
 一応、「歴史街道推進協議会」という団体の事務局長というのをやっていますので、その方面のことについて、少しは皆さんの勉強になるかも知れない内容についても含めたいと思っています。

 また、井上先生からは、どういうことをして、あるいは考えて学生時代を送ってきたかということも話して欲しいと言われております。
 なので後半部分には、恥ずかしながら、そんな話をさせたもらいたいと思っています。
 人間、多少は時代や年齢がかわっても、実は大して変わらないことの方がずっと多いんじゃないかと思っていますので、もうあんまり思い出したくないようなお話も含め、できるだけ、皆さんが「今」の学生時代をどういうふうに過ごしたらいいか、の参考になるかも知れないようなお話ができればと思います。

 もちろん、僕らの時代と皆さんの時代で全く違ってきていることも少なくありません。
 そこで最後には少し、皆さんの時代は、世の中多分、こういう風になっていくはずだから、これからの時代を生きていかれる皆さんは、できればこういう風に考えておいた方がいいんじゃないですか? というようなお話もできればと思ってます。

 以上のようなことで、今日のお話は歴史と、学生時代と、それから先の社会という、だいたい3部構成にしたいと思います。
  
 本音でやりますので、一部、東高の校風や方針にあわない部分があったとしても、それは呼んだ側にも責任があるということで、予めご了解いただきたいと思います。


 さて。

 僕の経歴みたいなのについてあらかじめ紙に書いたのを配ってもらっているということでしたが、もう少し、基本的な「生」の自己紹介をさせていただきます。

 僕は今、45歳です。
 皆さんのお父さんお母さんにも同年代の方が少なくないと思いますが、一応、同い歳の有名人には、マイケルジャクソンや山口百恵、原辰徳がいます。
 皆、一世を風靡した時期があったんだと思いますが、変な趣味に走ったり、単なるおばさんになったり、そろそろリストラされたりということで、出世頭としては何となく今イチな印象ですね。
 まるで、さまよえる、僕らの世代を象徴しているような気がします。
 
 仕事場は大阪の中之島にできた大阪国際会議場の中にあります。
 3年ほど前、大森一樹監督作品の「ゴジラ」がもののみごとに壊してくれた建物でして、先日は1階下のフロアで、プロ野球選手会と球団社長の第一回交渉というのをやってました。

 家は芦屋で、家族は今どき珍しく、子供が5人おります。
 小6、小3、幼稚園、もうじき2歳と来まして、一番下が6ヶ月です。
 女房は残念ながら・・・1人だけです。
 一応、経済ライターをしておりまして、緒方あきのというペンネームでコスモポリタン、ラビ・デ・トランタンなどに記事を書いてます。
 僕はO型、女房はA型なんですが、子供たちの血液型は全種類います。
 というのは、実は結婚したのが3年くらい前でありまして、要するに子供の上3人は女房の連れ子です。

 子供の中には、業界内でちょっとだけ、全国的に有名なのが2人ほどいます。

 1人は3番目の幼稚園児でして、去年の7月に六本木ヒルズの回転ドアで3番目が頭を挟まれまして、あやうく死にかけるという事件がおきました。
 ほんの0コンマ何秒かの差でした。
 女房がとっさに手を入れたため、センサーが作動してドアが止まったんです。
 その後、森ビルではこの春、ついに死者が出た訳ですが、同様の事故はもっと前からあった、ガードマンは背が低い子供にセンサーが反応しないことを当時から知っていた。にもかかわらず何の対処もしなかったのは、森ビルにも責任があるということで、警視庁とマスコミに通報いたしました。
 ということで。
 3番目は6歳にして「ニュース23」等の全国放送に出演経験を持っています。
 あの時、もし女房があと1m離れた所にいたら、それ以上に有名になってしまう所だったんですが、そうならなかったのは、きっと本当に運がよかったということだと思います。
 結局、この7月ですかね、遅まきながら、森ビル社長にまで捜査の手が及びましたね。

 もう1人の業界内プチ有名キッドは、1歳10ヶ月の4番目です。
 この子供の名前は、海の如しと書いて「みごと」君というんですが、何とこの子は半年くらい前まで、父親は誰かを巡る「みごとちゃん裁判」というのをやってました。
 何と日本の民法っていうのが明治の終わり頃に作られて、今だにそのままなんですね。
 で、離婚してから300日以内に生まれた子供は前の夫の子供になってしまうんです。
 今、だいたい4組から5組に1組が離婚がらみの夫婦になっているようですが、今の離婚って、親権や養育費や裁判所の待ち時間やらの問題があって、本人たちが合意してから、下手すると何年もかかってしまいます。ウチの場合はその上、ちょっと早産だったものですから、偶然、僕らの場合は女房の正式離婚から285日しかたってなかった。
 今は明治時代と違い医学も発達してますし、DNA鑑定なんかもある訳で、離婚の成立日より前に懐胎した可能性は100%ない、という医師の診断書とかもあるんですが、役所では前の夫の戸籍に入れる以外ありません、の一点張りでした。
 で、「とんでもない」という裁判を、弁護士を使わず、自力でおこしまして、結局、子供が僕に強制認知裁判を起こすという画期的な裏技をあみだしまして、「みごと」に勝訴しました。
 これが結構、法律界やバツイチ業界で話題になりまして、今時、下らない明治民法の被害者は数知れずなものですから、勝ち逃げはいけないということになってしまいました。
 女房は最近、大阪で親子法改正研究会というNPOを立ち上げ、そういうバカ民法そのものを変えようという活動を始めています。

 みたいなことで、42歳まで遊び呆けていた生活が、ここ3年間は一転してしまった訳ですが、まあ色々な経験をさせてもらいながら、それなりに子育ての方も楽しんでいます。


 さて。

 ここからは今やっている仕事の話です。
 歴史街道推進協議会という組織については、お手元の紙にあるようなことなんですが、地域的には関西の100くらいの市町村が加盟しており、ご近所では姫路や竜野、赤穂、御津、生野などが入ってらっしゃいます。
 会社組織に例えて言えば、歴史文化を切り口に、関西全体の広報や企画調整を担っている感じの組織でして、年間2億くらいのお金を集め、色んな事業をやっています。
 これはあくまで、全体の広報や企画調整関係のお金ということですので、各団体で個別に進められている関連事業をトータルしますと、年間100億前後になるかも知れません。
 あまり大した業界ではありませんが、これでも同種団体では世界1の規模です。
 ドイツにはロマンチック街道協会とか、カナダにはメイプル街道協会だとか、いくつかの組織がありまして、先日もドイツの連中と大阪で飲んだんですが、「そんなことでメシを食っているのは世界中でお前らだけだ」というふうに、からかわれていたりします。

 この仕事に関する研究がスタートしたのは86年からです。
 始めは作家で経済企画庁長官をしていた堺屋太一さんの個人的なアイデアがあっただけでした。
 ひょんなことから「お前、ちょっと手伝ってくれ」ということになりまして、まあ、ああいう偉い人が言うのだから、何かあらかじめ準備されたものがあるんだろうと思っていたんですが、本当に「アイデア」以外には何ひとつないという、惨憺たるお話でした。

 今はスタッフ10名に、周辺の関係者が何百人かおりますが、始めた時はたった1人で、本当に何もない所からやってきました。

 86年に初めて堺屋さんから話を聞いた時の第1印象は、正直言って「何だかダサいアイデアやなあ」という感じでした。
 それで、「ちょっと考えさせて下さい」ということにして、2回目にお会いした時に、まあ自分は歴史にも興味ないし、関西出身言うても西の方だし「私は向いてないです」ということで、お断りしたんです。
 そしたら、相手はさすがディベートの天才です。
 「そういう人がやった方がかえってええんや」と言うことをいいだされました。

 この話はある意味、真実でありまして、吉本興業の中邨会長も同じような話をされてます。つまり、吉本興業では、落語研究会の出身とか、誰々の大ファンですいうみたいな人は、絶対に社員には採用しないらしいんですね。

 ということで、僕は今でも、歴史の専門家ではありません。
 センター試験受けても、多分、70%くらいしか取れないでしょう。
 ちなみに高校時代の成績は「2」でした。

 その後、堺屋さんを紹介してくれた大人たちに説得されまして、「ほんなら先生、2ヶ月だけでっせ。2ヶ月まじめにやって、うんともすんとも動かなかったら、ちょっとこの事業には可能性がないということにさせてもらいまっせ」ということにしました。

 とはいうものの、本当に最初は何もなくて、ある日、堺屋さんに「打ち合わせとか交通費とか、経費が全部持ち出しなんですけど、どうしてくれるんですか?」と聞きました。
 そしたらですねえ。
 「井戸君、それはねえあなた、昼間はこの仕事をして、夜は牛丼屋で働きなさい」と来ました。

 ほんとの話です。


 さて。

 ここで、皆さんに質問なんですが。

 皆さんの中で、日本史を履修している、あるいは履修したことがあるという方、手を挙げてみて下さい。

 ・・・随分いますね。

 じゃ、その中で日本史を「けっこう面白いな」とか、「受験科目でなくても勉強したい」という人は???

 ・・・まさにそれが大問題なんですね。

 まあ、実は僕も同じようなもんでした。
 日本史の授業を面白いと思ったことなんか、いっっっっっっっぺんもありません。
 期末テストとかでも、藤原百川とかですね・・・受験科目でもないし、全く覚える気がしませんでした。


 <PP1:なぜ「歴史」は面白くないのか?>

 じゃなぜこの仕事を、そういう滅茶苦茶な悪条件の中で「2ヶ月目」以降も続ける気になったのかというと、はじめは、まあ「明らかに不得意な分野だけれども、まあそういうものでどこまでできるかを練習しとくのもいいだろう。別にやめるのはいつでもできるし」という気だったんですね。

 しかし。
 しばらくやっているうちに「これはやり方によってはなかなか面白い仕事になるかも知れない」ということに気づくようになりました。

 1ヶ月くらいしまして、まあそれなりに活動資金を出そうという人が出てきたこともありまして、関西中を調査することにしたんです。
 調査というと何だかかっこいいですが、要するに始めはのうちどこに何があるのかも全く分かりませんから、まあ半年くらいかけて関西中をあちこち旅行してたんですね。

 その時にですね。
 奈良に今も残されている平城宮の大極殿の上に立ったら、ものすごく気分がよかったんです。
 「710年に中国の長安にならってどうこう・・・」みたいに習ったけれども、「なんや、結局、今ここに立ってるのって、歴史上で自分だけやんけ。ざまー見ろ」みたいに思ったんですね。

 ともかく、第1の話としては、机の上の知識詰め込みではなく、実際の歴史の現場に行くというのが、割と面白いということが分かってきた。
 実際、今、わが家では家族になってからの行事として、長男が小学校を卒業するまでの3年半で47都道府県全部に連れていこう、というのをやってまして、すでに44まで来ているんですが、北は函館五稜郭から南はフランシスコ・ザビエル上陸地まで、子供たちにはどんどん重要な歴史の場所を見せてます。
 そうすれば「リアリティ」が変わって来るんですね。

 歴史っていうのは受験とか、一定の知識がないと全く分からない読物とかのせいで、ともすれば難しそうに思ってしまうけれど、こんな自分でもあちこち行ってるうちにそれなりに興味が出てくるんやから、導入部さえうまく工夫すれば、結構、面白く見せられるんじゃないかという気がしてきました。

 第2に「日本史はマニアックで広がりに欠ける」と書きましたが、はたして本当にそういう面ばかりなんだろうか、という気がしてきました。

 僕が漠然と抱いていた夢は「自分にしかできない形で、世界の人から評価される何かを残したい」ということだったんですが、例えば金閣寺でも法隆寺でも伊勢神宮でもいいんですが、そういうものを、自分の手で世界に紹介していけたら、これはなかなか面白い仕事になるかも知れないと思い始めたんです。
 ディズニーランドでも、冬のソナタでもそうですが、文化を発信して、その国のよさを理解してもらうというのは、核弾道ミサイルとかを作るよりも、はるかにましな安全保障政策だと、僕は本気で思ってます。

 第3には、歴史ってもっと身近なもんじゃないか、ということが分かってきました。

 当たり前の話ですが、およそ今、生きている全ての人の先祖は縄文時代にも、奈良時代にも、鎌倉時代にも、江戸時代にも、どこかで何かをしていたという訳ですが。

 実は今、僕らに分かっている部分の歴史というのは、そんなに大昔の話ではありません。
 今度、奈良の都は2010年に1300年目を迎えるんですが、1300年前なんていうと、イメージとしては、ものすごく大昔で、霧のはるかかなたのような気がして来る。
 だけど、よく考えれば、仮に僕らの祖先が平均25歳で子供作ってきたとすると、1300年前=たった54代前の祖先のお話です。
 54代というと、これまた凄そうですが、ひいじいさん、じいさん、おやじ、自分、子供、孫、ひ孫で7代ですから、たったその7−8倍前の話にすぎないんですよ。

 だから登場人物は皆、現代社会に生きる僕たちとそう大きくは変わらなくて、けっこうまともです。でないと、法隆寺とか平城京とか大仏とか大仙古墳とか、あんなすごいもん作れるはずないし、朝鮮半島まで出かけて戦争なんてできるはずないですからね。



 さらに、その後。
 自分がいろんなことをやるようになってからは、今、幸運にも残されている全てのものには、当然、それを作った人がおり、それなりの理由や事情があったということも解るようになりました。

 例えば、皆さんのすぐ側にある姫路城ですが。
 なんでこんな、まあ言えば関東や大阪や京都から離れた場所に、あんなでかい、一番いい城ができることになったか、不思議だと思いませんか?
 西の守りを固める必要があった、というのは1つの理由でしょうが、それだけではあんなでかい、しかも一番いい城を造る理由にはならなかったと思います。

 なんでか分かりますか?

 姫路城を作ったのは、嫁さんの実家パワーなんですよ。

 池田輝政の奥さんは徳川家康の娘なんですが、家康はこの子がお気に入りだったんですね。
 この時に52万石。
 家康は自分の子や孫をけっこう露骨に差別したと言われていますが、姫路の場合は、孫たちの領地をあわせると実質100万石くらいのものをもらった。

 次いで、池田氏が鳥取に行ってからは、本多忠政ですが、この人の奥さんも家康の孫ですね。
 この時に15万石。
 その子供が豊臣秀頼の未亡人である千姫と結婚した訳ですね。
 で、その時には結納変わりに、10万石。
 西の丸とか三の丸というのはそれで作らたんですね。

 大きな家やなあ・・・と感心してたら、結局皆、嫁さんの実家に建ててもらったものだった、みたいな話は皆さんの回りにも割とよくあると思います。

 そういう何百年前とか前の古いもの以外にも、世の中いたる所に歴史というものがあります。

 姫路関係の例をもう1つあげますと。
 僕が幼稚園の頃、姫路博覧会というのが開かれたんですが、大阪万博の6年くらい前にそんなことやったんですから、一地方都市にして、すごいことでした。
 僕も自分なり、幼稚園なりに脳に刺激を受けました。今でもけっこう面白かったことを覚えていますから。 
 で、今の手柄山はその会場だったんですね。
 僕より上の先生方は当然ご存じですが、今の遊園地とか、山の整備とか、今だに残ってるモノレールの橋桁とかは、その時のものなんです。

 このお正月に石見市長と神戸新聞の新春対談というのをやらせてもらったんですが、姫路博覧会というのは、実はあの人のお父さんがやられたものです。
 石見現市長のお父さんは本当に先進的な天才市長で、ちょっと進みすぎの所もあったんでしょうが、戦災をきっかけに大手前道路を造られたのも、復興の際にお墓が邪魔になるからと言って名古山霊園を造られたのも、彼です。
 大手前道路なんて、そんな時に電線を地下に埋設してるんですからね。
 名古山もそうですが、まさに都市計画のお手本のような話です。
 湾岸部に大企業誘致をしたのも石見さんです。
 書写山にロープウエィをつけたのも、また戦災都市連盟というのを作って、戦災にやられた都市で地方競馬をやっていいという権利を獲得してきたのも、皆、あの方です。

 なんでこんな所に競馬場や共同墓地やロープウェィがあるのかなあとか、姫路城1つをとってもなんでこうなってるんかなあとか、身近なことに疑問を持っていくと、結構、新しい発見があるもんですし、今、残されている全てのものには、当然、それなりの理由や事情があったり、それを作った人がいるということです。

 もちろん、歴史というのものは、立場によって見え方が全然違ってきたりもします。
 例えば、「新撰組」だって見方によって正義だったり、悪魔だったりもする。
 伊藤博文を殺した少年が韓国では大ヒーローだったりもする訳です。

 奈良の大仏とか大仙古墳とか、万里の長城とか、ああいう馬鹿でかいのもを造るというのも、素晴らしい面ばかりではありませんね。
 あんなものを造らされた人たちがいた訳ですからね。
 奴隷制度みたいなものが前提でないと、ああいうのはなかなか。
 今に残る建造物とかを見て、歴史の裏側というか、そういう名もなき人たちのことを思い起こして見るのも1つだと思います。

 それと、今の歴史学は発掘や記録重視の学問体系になっているんですが、限られた史料からの推理には限界というのものがあります。
 今月始めにも、藤原京が平城京よりもデカかったという発掘がありましたね。

 記録には間違いや嘘の部分も絶対に入ります。
 皆さんが60歳になって自分史を書くことを想像して下さい。
 正確には思い出せない部分や、ヤバイ部分、例えば万引きやカンニングしたことがあるとか、絶対大丈夫と思ってた相手に振られたとかの話はたいてい、自分史の中からは抹殺されますね。ケンカについても、大抵の人は、自分は悪くなかったという風に書いてしまいますね。
 正しい記録が難しいという意味では、実際には関係者が一杯残っている南京大虐殺ですら、一体何人が死んだのかすらがもはや分からなかったりします。
 魏志倭人伝のいう通りに行ったら邪馬台国が海の中にあったことになってしまったりもします。
 また、嘘の部分としては、なんとかの神がどうこうとか、外国の記録と見比べた場合、古代の天皇のうち何分の1かが、時の政府の作り話だったりといったことがある訳です。

 だからこそ、実際の歴史学には山ほどの異説がある訳で、本当はこの部分こそが面白いんですが、教科書には、まあ、誰が見てもこのあたりまでは「正しい歴史」として、教えて差し支えないだろうという部分までしか載ってません。
 だからあんまり・・・ということなんだと思うんですが、まあよくも悪くも学問としての歴史と、小説や大河ドラマとの違いがそのへんにあるんだと思います。



 さて。

 その堺屋太一さんの「アイデア」というのは、こういうものです。


 <PP2:歴史街道メインルート>

 ご覧の地図が「歴史街道」のメインルートと、僕らが呼んでいるものです。
 関西は実は、多分、皆さんが想像している以上に日本の歴史文化の宝庫でして、国宝や重要文化財の半分くらいがここに集積しています。
 形がある世界文化遺産だけで、法隆寺・姫路城・京都・奈良、そして今年7月に指定された紀伊半島の霊場と参詣道をあわせて5つ。昨年、無形の世界文化遺産になった大阪の文楽を合わせると何と6つもあるんです。
 多分、同じくらいの面積でこれだけ集積している箇所は、多分、北京・パリ・ローマ・アテネくらいしかないと思います。

 なんですが。
 あまりにもたくさんの資源が存在し過ぎて、一般の人にはそれが非常に分かりづらいことになっている点が否めないんですね。
 そういうものを解消していくために、まずは関西を舞台に、わが国の歴史の「入門コース」を作ろうじゃないか、というのが堺屋さんの「アイデア」だった訳です。
 
 ご覧のように、この「歴史街道」のメインルートは古代の飛鳥・斑鳩・伊勢から、8世紀の奈良、平安時代から室町時代にかけての京都、戦国から幕末にかけての大阪、そして文明開化の神戸まで、21の歴史の場所を、「双六」のように、ほぼ歴史年代順に結ぶコースになっています。

 これを使って、今から5分で日本の歴史の流れを説明したいと思います。

 まず、7世紀までの歴史についてなんですが、このルートでは4つの場所が指定されています。

 中心となるのは、奈良県の飛鳥。
 国家としての日本が誕生した場所ですね。
 仏教が伝来し、645年にはこの場所で、大化改新がおきました。

 東に位置する伊勢は7世紀にできた、一番大きな神社がある場所ですが、まあ弥生時代に稲作が伝わってきて、農耕社会が成立した。
 その中からまず、自然崇拝の考え方が生まれてきました。
 今の秋祭りなんてのは、だいたいがその延長線上ですね。
 一方では、村単位で多くの人口を養えるようになり、豊かな村とそうでない村ができ、争いや統合などあって、クニが次第に統一されていく訳ですね。

 3つ目の場所は飛鳥と奈良を結ぶ、山の辺の道です。
 日本武尊がいた古代大和王朝があったとされるのがこのあたりです。
 もちろん日本武尊というのは多くの人の業績が1つの伝承になったんだと思いますが、まあある種の事実がそういう形で伝えられているといった部分はあるわけで、そういう神話・伝承なんていうのも意外と無視すべきでない、と思う部分があったりもします。

 そういう話をすると、こいつもしかして右翼かよ? と思われることもあるんですが、それは完全な誤解であります。
 例えばこの山の辺の道周辺では多くの万葉歌が読まれているんですが、その中に、古代の朝鮮語でも読めるのがいくつかあるというのが話題になったことがあるんですが、当時の東アジア情勢を考えれば、むしろ万葉集の一部にそういうものがあるのを、当然だと思わない方がおかしいと、僕は思っています。

 7世紀までの場所の最後は法隆寺です。
 世界最古の木造建築物で、姫路城とともに、日本の世界遺産第一号に指定されましたね。
 と言うことで、この古代史ゾーンでは、飛鳥を中心に東西に神道文化と仏教文化の殿堂を配しています。
 自然崇拝に大陸から仏教が伝わって、今だに継承されている、日本人の神仏習合文化を表現している訳ですが、個人的意見を言いますと、その神仏習合文化をつくったとされている聖徳太子っていう人が本当に存在したのかどうか・・・これまた100%、絶対にいたとは言い切れないかも知れないという風に想ってます。
 あまりにもスーパーマンすぎますし、一族滅亡の話含め、不自然な点が多すぎます。
 もしかしたら日本武尊同様、記録作成時に、蘇我馬子とか何人かの、当時の政権にとって不都合な人々の業績を聖徳太子という人物に取りまとめたということかも知れないですね。
 肖像画があるので、ああいう顔をした人がいたように思ってしまいますが、画やら像やらは平安時代とか、江戸時代とか、だいぶ後に想像で作られたものですから。

 で、8世紀の奈良です。
 710年にできたのが、この平城宮跡ですね。
 約3キロ四方にわたって保存されているんですが、こんなものを残そうという運動をずいぶん昔の人がおこされたんですから、本当に頭が下がる思いです。

 奈良の都は中国の長安に習って作られたということですが、先日、若くしてなくなられた野村万之丞さんなんかは、奈良時代までの日本は事実上、中国の支店経済みたいなもんで、日本の真の独立は794年である、と言っておられました。
 僕もその通りだと思います。
 奈良のお寺と京都のお寺を比べますと、奈良のお寺は大陸風ででかいというのが1つの大きな違いです。
 
 しかし、当時の日本人は、別に長安をそのまま模倣しているのではありません。例えば、条里制の1つ1つのブロック、中国のは南北に長方形に長かったり、面積にバラつきがあったりするんですが、日本のは奈良でも京都でもほぼ真四角ですよね。
 日本人の方が多分、A型が多い分、几帳面なんです。

 その、平城京のダウンタウンの西南の方角にあるのが、西の京と呼ばれるエリアです。
 今も薬師寺や唐招提寺が残されています。
 この2つの寺の最大の違い、分かりますか?
 薬師寺は、要は国立大学。唐招提寺は鑑真による、いわば私立の学問所なんですね。

  奈良公園には東大寺とか興福寺とかがありますが、奈良の大仏について1つ言いますと、これは日本人の技術水準の高さというか、模倣のうまさというのが古くからのものだったことを示している事例だと思いますね。
 銅の溶着技術が伝わって150年後には、世界最大の溶着銅像を造っているんですから。
 その後も鉄砲が伝わってから150年後の関ヶ原の時には、日本は世界最大の鉄砲生産国になったり、ペリーが来てから100数十年後にも、日本は世界有数の経済大国になっていたりします。
 A型民族の特徴は、オリジナリティには欠けるかも知れないけれど、租借力、応用力はものすごいということなんでしょう。

 さて。

 古代史4つ、奈良時代3つのマルヒツポイントを経まして、次は京都方面です。
 京都は平安時代から室町時代くらいまでをまあ、分担しています。

 宇治、清水寺とかのある東山地区、平安京大内裏を5分の3に復元した平安神宮などのある岡崎地区、金閣寺・竜安寺なんかがある「きぬかけの道」地区、それから嵐山・嵯峨野地区を「入門コース」中のポイントにしています。

 が、実は京都は応仁の乱等々で、当時の寺はほとんど焼けてしまっております。
 そういう意味では、京都の寺はほぼ全て再建物です。
 金閣寺なんてのは放火とかもありましたから、昭和30年台ですね。
 これもざっと言えば、奈良の寺と京都のの違いです。

 そんな中で、現物が残っているのの1つが、宇治の平等院です。
 ここからは平安時代なんですが、大きな特色は2つですね。
 1つは大陸文化を消化し、日本的なるものを作るようになった。
 894年には、もうあまり学ぶものがないので、遣唐使も廃止されていますね。
 平等院はもともとは「源氏物語」のモデルになった人物が別荘にしていた建物なんですが、すでに源氏物語の頃には、日本人は「漢字」から「ひらがな」を発明していますね。

 もう1つの平安時代の変化は、貴族にかわる武士たちの台頭ですね。
 その代表格が源氏と平氏。
 1185年に平氏が滅亡し、1192年に鎌倉幕府が成立します。
 
 平安から鎌倉にかけては、空海・最澄にはじまり、奈良のとは違う新しい仏教が生まれてきますね。
 浄土真宗とか、武士たちに愛好されることになる禅宗とか。
 皆さんのほとんどが死んだ時にお世話になる仏教宗派は鎌倉か平安時代からのものですね。
 逆にいえば、奈良の有名寺社は、いわゆる檀家みたいなものは持ってないんですね。

 1392年からの室町時代になると「わびさび」に象徴される、緻密な日本文化が花開きますね。
 時代の主役が武士たちということもあるんですが、東大寺や法隆寺のようなデカイのではなくて、竜安寺の石庭とか、結構、シブくて深い文化が好まれるようになる。
 茶道とか華道とか、なんとか道という「型の文化」が成立するのもこの頃ですね。
 玄関とか茶室とか、今の家の原型みたいなものも、この時代に出現します。

 で、16世紀頃からはいわゆる戦国時代に入る。
 一方では1543年に鉄砲が、1549年にはキリスト教が日本に入って来ますね。
 新しい技術をうまく取り入れ、全国統一を目前にした織田信長が明智光秀にやられ、その後、天王山で豊臣秀吉が光秀を下してひとまず天下を統一。
 その後、徳川家康がそれをパクって、江戸幕府を作る訳です。

 もしそこで光秀の反乱がなければ、もしかしたら今頃は安土が首都で、琵琶湖の回りを山手線が走り、姫路にあった小さな城は戦災でやられ、関東も単なる農業地帯だったかも知れませんね。

 で、江戸時代からは政治の中心は東京、商業や文化はどちらかといえば大阪・京都という具合になりました。
 この間の場所としては、山崎合戦のあった天王山。
 大阪と京都の中間にある、サントリーの工場のあたりですね。
 それと、秀吉が建てた大阪城。
 京都の二条城。
 上方文化の象徴として、文楽劇場のある道頓堀周辺。
 それと幕末の適塾や米市場があった中之島周辺を「入門コース」に含めています。

 以降は「新撰組」や「ラストサムライ」の時代を経て、近代へっていうことなんですが、まあそういうのを象徴する場所としては神戸港・北野異人館街、それから宝塚、それからまあ時代的にはあまり関係ありませんが有馬温泉を含めて、以上21箇所を結ぶコースを「歴史街道」と呼びましょうということになった訳です。

 神戸について言いますと、ペリーの黒船がやってきて以降、最終的に日本は開国する訳ですが、ともかく江戸や大阪を荒らして欲しくなかったんですね。
 それで、横浜や、何もない漁村だった神戸に港を造った。
 街中にも、外国人居住地区を作って、まあできるだけ日本人と一緒にならないようにしていたんですが、数がだんだん増えるもんですから、「雑居地」という名の日本人と外国人が一緒に暮らしてもいい地区を作らざるをえなくなった。
 それが今の北野異人館街なんですね。


 みたいな風に、まあ日本史を履修していない人も、最低限の流れみたいなのを頭に入れておくことは意外と大事なことだと思います。

 特に、皆さんの世代以降は、ますます海外とのおつきあいが普通になってきます。
 僕らの世代でも、あんな奴が海外かよ? っていうような奴が、一杯、海外に赴任したり生活していたりするようになっているんですが、文化を語れない人って、言葉ができない人以上に、国際的には馬鹿にされてしまいますから。
 海外で生活したり、留学したりした人は皆、そういう経験をしてきてます。

 まあそんな意味では、自分の国や街に関して、基本的な紹介くらいできるようにしておいた方がいい。
 骨格となる部分が分かっていれば、後はテレビからでも小説やマンガからでも、引き出し作って中に入れていくだけですから。

 受験されない方もそれなりに、日本史の基礎的な部分は覚えておいて損はありません。

 繰り返しますと、弥生時代に稲作が伝わり、次いで仏教や漢字ふくむ大陸文化が伝わり、国家としての日本が飛鳥で成立。
 710年には本格的な中央集権国家が奈良に成立。
 その後、諸般の事情あり794年、京都に遷都。
 平安時代には大陸の影響を離れた独特の貴族文化が花開くも、武士たちが台頭し、源平合戦を経て鎌倉時代へ。
 平安から鎌倉にかけて、今の葬式仏教誕生。
 その後、もめ事ありて、1333年鎌倉幕府滅亡。
 南北朝の動乱がおわったのが1392年で、室町時代には禅や「わびさび」の緻密な型の文化が起こるも、終盤戦は群雄割拠の戦国時代に突入。
 信長の死を乗り越えて秀吉がひとたび統一を果たすも、死後、家康が江戸幕府を成立。
 300年の鎖国体制の中にはいいこともあり、悪いこともありで、そのうち黒船がやってきて、すったもんだの末、開国。
 近代化路線をつき進み、いい所まで行くも、一度は第二次世界大戦で、二度はバブル崩壊で挫折 ー というのが、大まかな日本の歴史ではないかと思います。


 ではここで、もう少しイメージを持ってもらうために、各地の映像を少しだけご覧いただきたいと思います。

 話がちんぷんかんぷんになっている方は、どうかここで立ち直って下さい。


 <VTR>




 はいこれで終わりです。



 <PP3:メインルート+3つのネットワーク>

 次に、現在の仕事そのものについて、簡単に説明しておきます。

 関西の歴史の場所は先ほどの「入門コース」だけではありません。
 そこで、ご覧のように、歴史の入門コースである「メインルート」以外にも3つの「地域ネットワーク」を設定しています。

 1つはこの夏に世界文化遺産に加えられた紀伊半島。
 日本人の精神文化を支えてきた信仰の場であり、関西の歴史文化の根っこにあたる部分だと思います。
 和歌山・奈良・三重の3県にまたがっています。

 2つ目は、南大阪から飛鳥にかけて、さらに丹後半島の周辺といった、古代史関連地域のネットワークです。
 特に南大阪には百舌古墳群・池上(いけがみ)曽根遺跡・近つ飛鳥・竹内(たけのうち)街道といった、7世紀以前の重要な歴史の場所が目白押しでありまして、飛鳥や、難波宮
跡(なにわのみやあと)・四天王寺といった大阪市内の場所をあわせれば、将来、世界文化遺産として認定されてもおかしくないようなゾーン形成ができると思っています。

 最後の3つ目は、いわゆる城下町や戦国時代に関する遺跡を有している地域です。
 映画「ラスト・サムライ」によって、今や世界中の人々が「サムライ」というキーワードを知っている訳ですから、連携し、これを活かして行かない手はないと思います。
 「メインルート」以外の有名どころでは、長浜・彦根・安土といった滋賀県や姫路城など、特にJRの新快速に沿ったエリアにいいのが繋がっています。

 あまり気づかれてないことですが、兵庫県ほど、色んなタイプの城下町がある県というのは珍しいんですよね。
 赤穂・竜野・明石・三木・洲本・尼崎・伊丹・篠山・出石、みんな城下町ですからね。
 兵庫の観光って、焦点が絞りにくくてアピールが難しいとよく言われるんですが、こういうのを活かすと、もっと何かできるかも知れません。


 <PP4:整備・PR・ソフト・ハード>

 またしても話がそれました。
 では、協議会やその参画団体はどんな活動をしているのか。

 活動を大きく分ければ、各地の歴史的特徴を活かした地域づくり活動と、情報発信活動の2つに分けられます。
 地域づくりがハード面の事業とソフト面の事業に。
 情報発信については国内向けと海外向けのに分けられます。
 事業項目は50くらいありますが、その代表的なものをご紹介します。


 <PP5:モデル事業マップ>

 まず、歴史文化を活かした地域づくりの中心的事業は、この「歴史街道モデル事業」と呼ばれるものです。
 地域の歴史的特徴と「歴史街道」全体のイメージとを重ねあわせた「歴史テーマ」を、それぞれの地域に設定し、市民の皆さんのアイデアを集めながら、事業を進めるという試みです。

 関西空港のオープンとあわせ、10年前から取り組みが始まり、昨年度でトータル50ヶ所となりました。


 <PP6:宇治市の整備事例>

 代表的な整備事例を2つばかり紹介します。
 これは京都府の宇治市で、メインルートの平安ー室町時代ゾーンに位置します。
 街づくりのテーマは「源氏物語のまち」でして、これがJR駅前の歓迎ゲート。駅も改修の際に、それなりに歴史の街らしくしました。
 平等院の周辺にある「源氏物語宇治十帖」の関連地は、全てこういう遊歩道で結ばれています。
 案内表示はこんな感じです。ただし、あまり数が多いとごちゃごちゃしてしまうので、地面に埋め込んだものと併用しています。
 平等院の裏手の新しいバイバスですが、ここも一応「和風の道づくり」をしようということで、植栽や街頭、歩道などに気を配っています。
 川もそれなりに、自然工法で復元しました。総檜で復元された宇治橋です。「フォオポイント」づくりをやろうということで、こんなモニュメントも造りました。
 で、これが「源氏物語ミュージアム」です。

 みたいな風に、どうせやるなら思い切ってテーマをしぼって、市民にも誇らしいし、来た人も楽しい、「そこにしかない街づくり」をやり、なおかつそれを「ルート」に沿って連携させていこうということなんですね。


 <PP7:彦根市の整備事例>

 これは、戦国時代ネットワークの1つ。滋賀県の彦根市です。
 彦根城前の市街地再開発の様子ですが、こちらが整備前。そしてこちらが現在の様子です。
 姫路でも一部やっておられますが、道路の拡張とあわせて、昔の城下町っぽい町並みを復元し、ヤル気のある人にそこで商売をやってもらうといった事業の走りです。

 こういった動きが、関西の50の地域で少しずつですが、この10年、進行してきているということを覚えておいて下さい。


 <PP8:「線」の整備>

 さて。これからの課題は、まあ少しずつですが、これらを各地域は鉄道、高速道路、一般道路、古道や旧街道、さらには河川によって「線」に結んでいくということです。
 まあ、ある程度、格好がついてきたなあと思っていただくには最低でも20年くらいはかかるでしょう。そういう意味では、ものすごく息の長い仕事です。
 それから、歴史に手を入れるということですから、慎重さも求められます。
 まあ、自分的には、先ほどの石見市長のお父さんではないですが、死んだ何十年か後とか、できれば何世紀か後の子孫とかそういう人たちに、20世紀の終わりにああいうプロジェクトを進めた奴がいたのは大したものだった、と言われることがもう1つの夢であります。


 <PP9:六都再見・ツアーの様子・QRコードパンフレット>

 もちろん、そのような整備・保全に関わる事業が進まないと何もできないというんじゃしょうがありませんから、協議会では広域ネットワーク団体ならではの、ソフト事業を数多く仕掛けてきています。
 ツアーやイベントをシリーズで実施していったり、今、駅とかに置いてあるスタンプラリーのパンフレットは、日本で初めて、携帯のQRコードを広域的に活用したものになっています。


 <PP10:歴史街道iセンター・語り部ネットワーク>

 広域的な情報を設置した「歴史街道iセンター」が、道の駅含め42ヶ所に設置してあります。大手前道路の所に新しくできた「情報ステーション」もその1つですので、のぞいて見て下さい。
 また、メインルートでは、各地の「ボランティア・ガイド組織」による定点案内をここ数年来実施してきています。これは、電車の中に吊す広告ですね。京阪神の私鉄はなかなか自分の沿線以外はPRしないんですが、これなどは近鉄・阪急・京阪の3私鉄共同キャンペーンという形で進めています。


 <PP11:紀伊半島交流会議・町家店舗のネットワーク>

 紀伊半島では昨年度から、地域づくりに携わっておられる方々の県境を越えたネットワーク化に取り組んでいます。ご覧の写真は世界文化遺産登録を契機にした、紀伊半島交流会議の様子です。
 また、今期からは北野異人館から京都・奈良を通って、伊勢のおはらい町まで、いわゆる町家(まちや)を活用しておしゃれな店舗づくりをされている皆さんのネットワークを立ち上げます。


 <PP12:阪神間美術館博物館・城下町の祭・物販>

 その他、この11月からは、私立のものを含めた美術館や博物館が多数集積している阪神間で、各館の共同イベントを立ち上げます。また、来年度には、新快速に沿って、城下町のお祭を連携させてPRしていけないかとか、色んなことを考えています。


 <PP13:外国人対応 4ヶ国語案内板・博物館>

 外国人観光客への対応も色々とやっています。
 左のは大阪市内に設置した、4カ国語の音声案内板です。
 右のは博物館など外国語音声の説明をやっている所です。


 <PP14:ABC番組+NHKビデオ>

 情報発信の要はテレビ番組の放映です。
 過去NHK衛星放送で150回、またABCでの番組は昨年で10周年となり、すでに計2500回を越える放送となっています。

 ABC番組の放送は月ー金の毎日、時間は以前はニュースステーションの前だったんですが、今は夕方6時54分からで、何と「ドラエモン」とかの前ということになっています。
 番組の基本コンセプトは「1つのへー」と「2つのほー」ということでありまして、つまり1分40秒の中に、合計3回は、「ほー」とか「へー」とか思ってもらえる情報を入れるということです。
 あと、いい映像を残そうということで、普通、この種の番組には使わないレールやクレーンを使うなど、ちょっとした映画なみの労力をかけています。

 今週は石清水八幡宮をやってます。
 朝2時から始まるお祭りの撮影があったので、先週、僕も現場で立ち会いました。
 このお祭りはもともと神仏習合行事でおこなわれていたんですが、明治の廃仏毀釈以降は神道としての行事だけになってしまいました。が、昨年、実は京都の神社界と仏教界が「歴史的和解」をしまして、お祭りを元の形で再興しようということで、ようやく今度の日曜日にそれが実現します。
 僕も平安装束で参列しておりますので、ご興味にある方は是非お運び下さい。
 みたいなことの告知を兼ねて、今週は「仁和寺の法師が下まで訪ねた」、石清水八幡宮をやってます。

 
 <PP15:梅田駅・DVD・HP>

 これからの課題はそういった映像の再活用ということでして、なんせ2500本分のソフトがあるというのはすごいことです。
 4カ国語のDVDを作ったり、街頭放映をしたりしています。写真の場所は阪急の梅田駅です。
 一応、HPは10ヶ国語でやっているんですが、もう少し機が熟してきたら、これを動画で見られるようにもしていきたいし、将来は携帯での配信なんかもできれば理想的だなあとも思っています。

 ただしですね。
 2500本と言っても、なかなか古い映像というのは使いづらい。
 というのは、お寺やそんなのは別に変わらないんですが、歩いている女の子の格好が全然違ったりするんですよね。
 その他、最近は著作権の問題がなかなか難しくて、例えばBGMにビートルズの曲を入れてしまったら、著作権料はビートルズさんに支払わないといけないんですよね。
 しかも、始めの頃は映像と音声を1本のテープに入れていましたから、人の音楽を使おうものなら、全く再利用できない。
 そんな失敗も何回かしました。

 ちなみに、僕らの協議会は多分、日本で1番最初にまともなHPを作った団体でありまして、まだ誰もインターネットなんて言葉を知らなかった93年くらいからやっております。当時、日本のHPはNTTとどこかの学者さん2名しかやっておりませんで、学者さんのは書きかけの論文。NTTのは「JAPAN」というページで、日本地図上に富士山と金閣寺と阿蘇山の写真が載っており、クリックしたら金閣寺の写真が大きくなってそれでおしまい・・・というような感じでした。
 いやはや、たった10年で世の中、変わる部分だけは、確実に変わっていくものです。

   
 <PP16:毎日新聞>

 テレビの他の広報活動としては、例えば新聞社と共同でシンポジウムをやったりもしています。これは今月始めに毎日新聞とやった分で、2週間前くらいに内容が全国面で紹介されましたので、ご覧いただいた方もいらっしゃるかも知れません。
 世界遺産の場所を「歴史街道」に沿って、どう連携させるかというようなテーマで、姫路市からは助役の嵯峨さんにお越しいただきました。
 来週の月曜日、10月4日には、今度はサンケイ新聞と、大阪をテーマにしたのをやります。出演は結構豪華メンバーでして、塩爺、大阪市助役の大平光代さん。「だからあなたも生き抜いて」の方ですね。それと「そごう」の社長さん。
 それからガクッと落ちてワタクシ・・・というメンバーです。
 場所は吉本前の「ワッハ上方ホール」ですので、こちらにもよろしければどうぞ。


 <PP17:月刊歴史街道 歴史街道ウォーキング>

 その他、出版活動もやってます。
 PHP研究所出している、月刊「歴史街道」という、どちらかと言えば中年サラリーマン向けの雑誌はもう10年になりますが、毎月20万部くらい売れています。
 その他、ガイドブック類や「歴史街道殺人事件」などなど、だいたい年間1種類くらいのペースで新しいのを出していくようにしています。
 ガイドブック類については、英語や中国語でも出しています。


 <PP18:プレスツアー、東京駅展示>

 首都圏の雑誌社に各地を紹介してもらうためプレスツアーをしたり、東京駅その他を活用したイベントを実施したりもしています。


 <PP19:フランス・ファム、中国ロケ、パリでのパーティ>

 海外に対しても、各種の受け入れをおこなったり、現地でのPRを実施したりということでやっています。
 例えばこれは、中国で最も人気があると言われる旅行番組の番組制作風景でして、少なくとも2億人くらいの方がご覧になったと聞いています。
 これは香港テレビの撮影風景ですが、真ん中にいるのがアニタ・ムイさんという、この大晦日に亡くなった有名な歌手です。ジャッキー・チェンの相手役として「レッドブロンクス」とか、色んな作品に出てた人ですね。
 それと、この写真はですねえ・・・長くやっていると色んなことがあるもので、ここ数年、高野山にフランス人がすごく来るというので「なんでだ?」ということになり、調べてみたらある女性作家が高野山を舞台にベストセラーを書いているというのが分かった。
 で、パリのパーティでそのベストセラー作家を紹介してもらえるということになり、緊張して名刺差し出したんですね。
 そしたら、「トモキー、あんた何言ってんの?」と言われたんです。
 なんと10年くらい前に、僕らが呼んで、自分で高野山に連れてったライターのおばちゃんが、その後、大作家に出世していたんですね。


 <PP20:海外フォーラム実施都市>

 海外の都市で、マスコミや旅行エージェントを招いてのフォーラム活動もおこなってます。アジア・ヨーロッパから北南米・オーストラリアまで、のべで言うと50数都市での開催実績があります。半分くらいは僕が直接言って話してます。


 <PP21:日韓共同イベント・しゅようき・サムライミッション×2>

 これはサッカー・ワールドカップのはるか前に、僕らの提案で、ロンドンで開いた日韓共同キャンペーンの時のものです。僕の両隣にいるのが、両国の観光代表です。
 また、5年くらい前から北京に海外事務所を開いておりまして、特に中国対策には力を入れてます。
 この写真は昨年度、「ラストサムライ」の上映に合わせて、京都市とともに実施した、米国での「サムライミッション」の様子です。従来のセミナーと合わせ、太秦映画村の俳優さんや舞妓さんと一緒に、街頭パフォーマンスなどを実施しました。場所はロサンゼルスのチャイニーズシアター前、それからこれがニューヨークのヘラルドスクエアです。

 
 <PP22:GME>

 これまで関係した中で、一番面白かった海外事業は10年くらい前に東大寺で開かれた「GREAT MUSIC EXPERIENCE」というイベントです。ボブ・デュランからXジャパンまで、内外のアーチストを招いてやったコンサートで、一応、世界の23ヶ国で放送されました。
 まあ最近は景気もよくないので、なかなかこういうクラスのはできなくなってしまいましたが。

 みたいなことで、広域のコンセプトにそった各地域の整備と、内外への広報活動みたいな分野を、うまくバランスとりながら、相乗効果を出していこうというようなことで活動をしています。

 以上が、僕の仕事の概要です。



 <PP23:学生時代を振り返り、提案できること>

      
 さて、歴史の話はここまでで。

 ここからはがらっと変わって、後半の部です。

 ここからは、過ぎ去りし昔を振り返り、それなりに長く生きている者として、ひょっとしたら皆さんの中の何人かには参考になる「かも知れない」話をさせたもらいたいと思います。

 ちょっと唐突なんですが、小学6年の長男がちょっと変わった子供でして。
 もともと右脳がよくて左がダメというタイプで、よく言えばアインシュタインやジョンレノン、悪く言えばジミー大西みたいなタイプだと思っていたんですが、「こいつはタダ者じゃない」と思う時もあるんですが、一方では集中力が散漫だったり、楽しいと急に大興奮したりもするんですね。
 で、ちょっと人間の脳のことを勉強し始めたんですが。
 まあよく考えて見れば分かることですが、人間の脳には皆、それぞれに個性があり、しかも完全な脳を持っている人なんて1人もいないんですよね。
 皆、そこを何とかコントロールしたり、あきらめたりして、普通の日常生活を送っている訳です。

 例えば、自分の脳は、暗記にも理科系には向いていません。
 高校の時には日本史とか暗記するのが嫌だったので、理科系クラスに入ったんですが、数V・物理U・化学Uなどがまるで分かりませんでした。試験が5点で追試験が8点とか、そういう世界でやってました。
 努力というよりも、センスというかそういうのに、脳が全く向いてなかったと思ってます。
 将来、痴漢になることもないでしょうが、チカン積分とかを理解できることも絶対にないと自信を持って言えます。

 あと、僕は保育園とかの時代に、なかなかスモッグのボタンが止められなかったという記憶があるんですが、今でもものすごく不器用でして、例えば、車はあるんですけれど、自分ではほとんど運転してません。
 理由は、あまりにも危ないからです。
 いわゆる、THE ペーパードライバーですね。
 ペーパーに書いてあることを忘れるとTHEがつくんですが、海外とかでどうしようもない時に、たまに運転すると自分でも怖くて怖くてしょうがない。
 あのクリントンが自伝に、運動神経がニブくて22歳まで自転車に乗れなかったと書いていましたが、僕も告白すれば、教習所の第1・2段階だけに実に25時間もかかりました。

 みたいな話で。
 ある特定のことがすごく苦手だというような面は、多分、誰にだってあるんですね。

 僕らの頃は中学の内申書で進学先がほとんど決まるということだったんですが、技術や美術が2と3だったので、西高ではなく東高を受けることにしました。
 西高みたいなガリ勉はいやだというのもあったんですが、そういう意味では東高にも大いに裏切られましたね。

 一方で、脳にはそういう不完全な部分もあれば、何もしなくても人よりもできてしまう部分だって必ずあります。

 僕の場合も数字とか暗記が全くダメかというとそうでもなくて、何年か前に「筋肉番付」で、15桁とか20桁とかの数字を一瞬にして覚えるというのがあって、何であんな簡単なこと皆、できないんだろう? と思っていました。
 20桁くらいを3回くらい続けてあてれば100万とか貰えるというので、部下の前でやって見せましたら「事務局長、やっぱりあんたは天才だ。我々のボーナスのためにも絶対応募すべきだ」というんでその気になったんですが、すぐにコーナー自体が終わってしまいました。
 多分、何十人かに1人はそういうことが簡単にできる人がいて、応募が殺到したんだと思います。

 暗記についても、覚えるのは遅いんですが、反復して覚えたことは絶対に忘れないという特徴があることも分かりました。
 受験の時の「基本英文700選」とか、高校1年の冬休みの宿題だった「百人一首」とかでも、今だにすらすら言えます。
 小学6年生の体育祭でやった「さよなら万国博」というお遊戯や、幼児の頃の「お母さんと一緒」の体操とかも今だに全部できたりもします。

 わざわざ、やらないだけです。

 みたいなことで、脳というのにはそれぞれに「オンリーワン」の個性がある。
 だけれども、ここからが肝心なんですが、その「オンリーワン」の個性そのままに、社会に認められ、自分らしく生きていくというのは、そう簡単なことじゃない。

 努力や工夫もいるし、弱点をカバーするテクニックも必要なんですね。
 自分のやりたい生き方、やりたくないこと、行きたい場所みたいなものをよく整理して、受験に限らず、社会や相手に必要とされるためのそれなりの努力や工夫をしていく。
 運がいいこともあるし、そうでないことも多分、平等にあるけれど、しのぐべき時にはしのいでいく。
 できる限り運命や自分自身をコントロールして、要所要所ではきっちりと決断することによって始めて進化していけるんですね。
 ファミコンとかと同じです。

 これからするのは、自らの子供の頃や若い頃を振り返っての、そんなお話です。


 <PP23ー1:学生時代を振り返っての提案
   @まずは「自分自身」をよく知ろう!>

 まずは、自分自身の高校までの話から始めたいと思います。
 僕は綿町で生まれ、子供時代はヤマトヤシキが主な遊び場でした。
 祖父が生命保険会社の姫路支部をやっておりましたので、保険のおばちゃんが一杯いる中で、ちやほやされて過ごしました。だけどその分、外の社会の荒波にもまれるのが苦手で、商店街の時計家の息子とか、壺屋の息子とかにいつも小遣いをまきあげられては泣いていました。

 小学1年まではほんとにさえないガキで、成績も3と4だけでしたが、2年生から親が書写に家を建てて転校することになりました。
 当時の書写は、今以上に田舎で、原住民の子供たちと魚取ったりあけび取ったりする生活が急に始まったんですが、何とか子供なりになじもうとは努力しまして、あとはまあ田舎なので勉強のレベルも高くなかったんでしょう。
 急に優等生になりました。
 やはりうまく行かない時は環境を変えてみるというのは1つなんですね。
 皆さんの多くもそうかも知れませんが、たいていは2学期の委員長というのが僕の指定席になりました。

 小学生時代の自分を振り返って、あれはなかなかだったなと思うことが1つだけありまして、なんだか知らないが企画するのが好きだったということですね。
 「こうすればみんなにプラスじゃないか?」みたいなことを思いついてはよくやってました。

 例えば、近所のガキどものお年玉の2割を拠出して、ソフトボールとかミットとか、共通の道具を買ったり、広場の横の家にそれを預けておくから、皆で使っていいみたいなことをやりました。
 お年玉の2割だから、1000円で済む子もいれば10000円くらい出さないといけない子も出てきて、文句を言う親もいましたが、小学生の時に「おばちゃんそれは違う。会費制にしたら、ただでさえ少ない子のお年玉がなくなってしまうし、いいものを購入する資金にならない。かといって累進課税みたいにすると、出すお金に差が出過ぎてしまう。皆の物を買うのに、あまりにも多くもらった子に頼りすぎるのはおかしい。だから、この考え方はその中間を取ったたんだ」みたいなことを言ってたらしいんですね。

 近所の草ぼうぼうの空き地を皆で整備してグランドにするから、今度の日曜日は親連れてきて草引きだ、とかいう号令もかけました。
 誰の土地か知らないんですよ。
 それを勝手に30人くらいの親子で1日かけてグランドにしちゃいまして、ネットとかも建てたりしました。
 しばらくして持ち主が怒ってきたんですが、説得して使わせてもらうことになりました。
 親たちも親たちですよね。こんなガキの口車に乗って、一体何を考えてたんでしょうか?
 みたいに思うんですが、「三つ子の魂、百まで」というか何というか、今の仕事の仕方もそういうのと似たり寄ったりのやり方です。

 みたいなことも含めて、多分、すでに皆さんもそれぞれの個性というか「売り」というか、長所、弱点みたいなものの原型は、子供時代にどういうことをしていたか、あるいはどういうことに興味があったかで、かなり分かっているということなんだろうと思います。

 そんな中で、僕がまず第1に皆さんに提案できることは、自分の個性をよく踏まえて、自分らしく生きるにはどうすればいいかを、今のうちからよく考えていった方がいいですよ、ということです。

 個性の中には、当然、不得意な分野も含まれます。
 その多くは多分、死ぬまで不得意です。
 努力によって克服できるケースももちろんありますが、それが自分のセールスポイントになるかというと、そこまではなかなか難しい。

 勉強はできても、体力がないとか、人づきあいがダメだとか、そういう弱点は誰にだってある。ならば、弱点の部分で勝負しなくてすむようにやっていく、逆に言えば、いい所で社会参加していくことが大事だということになると思います。

 皆さんが知っている人の中で、そういう面での成功者の例を1人あげます。

 今、阪神の監督をしている岡田さんです。
 実は大学の先輩でして、今でもまあそれなりにかわいがってもらってるんですが、そういう意味ではあの人は、ああ見えてなかなかすごいです。
 甲子園に行けなかった以外、大学、阪神、監督と、描いていた夢が全部実現ですから。

 1つには当然、才能があったし、何よりも、本人がそれに気づいていたというのがあると思います。
 小学4年生の時の南海ホークスのファン感謝デーか何かで、大阪球場のレフトスタンドにホームラン打ったらしいんですが、それで少年野球からスカウトされて、いきなり世界大会準優勝とかですから。

 周囲の環境もよかったんでしょう。
 村山実という名投手がいたんですが、引退試合の前にキャッチボールとかの練習相手がいなかった。それで後援会の偉い人が、知り合いにうまい小学生がいる、というので連れてきたのが岡田さんですからね。

 それに加えて、ああ見えて努力もしてます。
 どうやらああいうスポーツは成長期に自分の「型」を作らないといかんらしいんですが、中学時代、毎晩、何があっても絶対、家で1000回素振りしたって言ってましたから。
 才能もそうですが、夢や目標がはっきりしているからこそ、努力できたという面もあったのだと思います。

 その後、今の学校では甲子園行けないというんで北陽に入り直して、でもそこからはなかなか早稲田には入れないから、もう素振りなんか一切せずに、夕方6時半から予備校通ってたっていいますからね。
 半分意地悪な言い方をすれば、選手やめてからはやはり学歴がモノをいう、という当時の社会システムへの理解もあったんですね。

 大学時代は豪傑で、陸上の先輩が夜明けまで岡田さんと飲んでいて、午後、二日酔いで目を覚ましたら、岡田さんがホームラン2本打ってた・・・とかいう話があります。
 なので、悪いけど絶対、卒業できてないと思いますが、「あんな大学は卒業しない奴の方が出世する」ということまで含めて、努力するポイントがものすごくしっかりしてます。

 あの人ほど思い描いた理想通りに、用意周到な人生をやっている人は少ないと思います。


 ということで、自分なりの提案その1としては、三つ子の魂百までで、もう皆さんの個性や得意分野、ダメな所は大体出尽くしている。
 自分らしく生きるための第一歩は、自分のことを知ることですから、今のうちからそういうことを意識してった方がいいですよ、ということでした。



 <PP23ー2:学生時代を振り返っての提案
   A勉強だけでは寂しいよ!>

 さて、2つ目の提案は、高校時代に勉強以外に何か1つ、一生の財産となるようなものに出会って欲しいということです。

 僕の場合は、勉強はしませんでしたが、ともかくこれをやったと言えるのが陸上でした。
 ソフトもバスケも卓球もまあ人並みで、何ができるという訳でもなく、どうやら長距離が人より速いらしいというので、中学の時に陸上部に入ったんですが、自分の場合はそれが人生を大きく変えました。
 今はこうやって太ってますが、選手の時の体重は50キロくらいですから、何と1・5倍くらいに成長しました。1・5倍というと、すごいですよ。身長に直すと252センチですからね。

 人生を変えた1つ目は、ささやかながらの勝利体験です。
 2年くらいになって、市とかで上位に入るようになってくると、書写の田舎モンなんですが「なんや、姫路市ってもっとでかいと思っとったけど、オレより早いの1人しかおらんのけ?」と思うようになりました。
 陸上の場合はタイムとかがありますから、県で何番目くらいとか、全国一の奴は自分の何メートル前にいるとかが分かるんですね。

 高校に入るとますます懲り始めました。
 2年生からは、週に4日、勉強道具や制服を全部部室に置いて、家から走って通学するようになりました。
 勉強の成績は入った時は5科目だけならけっこう上位だったんですが、出る時は405人中400番くらいでした。
 ってことで、成績は急降下していくは、授業中に寝るはで先生からは注意されましたが「オレはインターハイに出るんじゃ。君なんかには分からん世界だろうがな」と思っていました。

 競技成績はその割には勝負弱く、大したことなかったです。
 2つ後輩が全国に行き、やはり早稲田に入って、箱根駅伝でも区間2位になりましたが、自分自身はいつも県大会どまりでした。
 当時は報徳とか西脇工業とかも、ウチの少し前を走っていた時代で、県の駅伝大会前のランキングは東高が6位、西脇工業と報徳が5位と3位で、1分くらいしか差がなかったのを覚えています。
 谷本先生もよくご存知だと思いますが、高校駅伝で全国的にも有名な西脇工業の渡辺先生と報徳の鶴谷先生は当時、県内でも有名な「ヘボ監督」でした。
 まあまあいい選手を揃えて、目の色を変えて結構すごい練習をさせているのに、やってもやっても勝てない。
 しかし、継続というのは本当に力です。
 不器用ながらも1つのことに執着して、負けるたびに自問自答されたことの積み重ねが、今のあのお2人を作られた訳です。
 なんたって、プロジェクトXですからね。
 今も12月の高校駅伝を見る度に、「ヘボ監督」時代のお2人の姿を思い出します。
 あれがあったから、今、これがあるんだなあという感じですね。人生のいいお手本です。

 結局、最後の県大会本番は早稲田の後輩になった彼を1年生にもかかわらず花の1区に持って行ったのが裏目に出まして、涙の11位だったんですが、ともかく訳も分からずにコーチもいない中で、一生懸命やりました。


 さて、先ほど、自分の中学時代の話で「2学期の委員長」と言いましたが、これは実に微妙なポストでして、人望はまあまあ、だけど1学期の委員長にするほど勉強的には優等生ではない、という人がなる場合が多いんですね。
 この「2学期の委員長」というのが、申し訳ないけれど、基本的には多くの東高の卒業生に与えられている「処理能力上の」ポジションなんだと思います。

 今さら一流企業がいいとかいう話じゃないんですが、旧来型の社会構造の中における姫路東高の学力というのは、処理能力だけなら、いわゆる一流企業と言われる所にはなかなか入れないか、また入れたとしても課長にはなれるけど、役員にはまずなれない、というようなポジションです。
 だから、できればそういう旧来型のモノや学力だけにあんまり頼らないことも考えた方がいい。

 僕はその後、松下政経塾って所に入学したんですが、今、NHKのビジネス英語に出ている本間って男と同期同室になりました。
 彼は一応、東大の文学部社会学科を1番で出たらしく、留学したこともないのにTOEIC満点とってたような奴でして、「東大生にも努力せずに入った人と、努力しないと入れなかった人がいて、必死でやってきた人は入ってからが大変」みたいなことを平気で言ってました。
 ならば僕は別の所も含めて奴と勝負するしかない訳ですよね。
 僕はどんなに努力しても東大で1番にはなれなかったと思いますし、別にテスト以外は何が負けているとは思えない訳ですから。

 もう一人、同期同室だったのが松沢という奴で、今は神奈川県知事をしてるんですが、慶応の幼稚舎から来てるんで、5歳以降勉強ってものをやったことがない。
 少なくとも当時は、僕なんかよりも知識的にははるかにバカで、経済学で微分が出てきた時に「お前、こういうの数Uでやっただろ?」というと、「微分とか数Uって何のこと?オレ、そういうのがあること自体を知らないんだよな」なんて馬鹿なことを言ってました。
 だけれども、それでも何かしら別のモノを持っているから、今はそんなことお構いなしに収まる所に収まっていたりもするんです。

 要するに。
 僕なんかも「お勉強の頭はそれくらい。だけど、別にそんなもんじゃあ勝負せえへんでえ」とか「知識は大したことないけど、カンはええでえ」とかいう「合わせ技1本」みたいな世界を作って、メシを食べている訳ですね。

 世の中には当然、学校の勉強だけじゃないよという世界がありますし、ペーパーテスト以外に何もできない奴っていうのは、いい学校を出てても、ほんとみじめなもんです。

 ちょっと意地悪ですが、僕はよく、それなりのポジションにいるくせに、ぼーっとしてて、どう見ても仕事ができない奴を見ると「○○さんって、京大でしたっけ?」と聞いてやるんです。
 まあ、そんな奴は学校やペーパーテストがものすごくよかったことでしか採用されっこないからってことなんですが、ここで「京大?」と聞くのがポイントでしてね。
 侮辱したことにもなりませんし、「いえ、東大です」とか言いにくい言葉を出させてあげたり、忘れていたプライドをい出させてあげることになったり、あるいは「すいません、阪大です」とかいう風に、別に謝ってもらう必要なんかないんですが、何となく優位に立てたりするもんなんですね。


 まあ、みたいな話で。

 先生は勉強しろ、勉強しろと言うでしょうが、それ以外に何か1つくらいは後に残ることをしないと、あの3年間一体何やったんや、勉強だけやったら私立の何とか高校に行けばよかったやんけ、ということになりかねないと思います。

 最低でも、高校時代に本当に一生つきあえる友人を1人か2人は作って下さい。
 社会人になってからも、知り合いや仕事仲間はいくらでもできますが、皆、家庭とか仕事上の損得とかがありますから、無条件の友だちを作るというのは多分、学生時代を逃すとなかなか難しいと思いますから。



 <PP23−3:学生時代を振り返っての提案
    B人生のスランプは早い目に>

 教訓の3つ目は、人生のスランプは早い目に、ということです。
 以上のようなことで、僕は高校3年の11月末までクラブ活動を続けた訳ですが、その後、心の中にポッカリと大きな穴が開いてしまいました。

 クラスの皆は当然、受験勉強一色で、すでにもう志望校の確定や追い込みに入っていました。
 僕はなーんにもしてない。それどころか、皆が行くからといって大学に行くみたいな気分にはどうしてもなれませんでした。

 それで、恋愛に逃げました。
 つきあっていた彼女がいたんですが、自分が陸上に夢中になっている間は「おう、オレは忙しいから先に帰れ」みたいな亭主関白だったんですが、アイデンテティを喪失しているもんだからわがままになり、相手も受験があるのに、毎日、デートを強要するようになりました。
 それで「人生って何やろう?」とか「大学行ってどうすんねん」とか、体力が余ってる分で哲学論争を始める訳ですね。
 そりゃ、嫌われますわな。

 仕事を定年になったとたん、女房から離婚届を渡される人って、多分あんな感じなんだろうなと、今にして思いますね。

 結局、クリスマス前には完全に嫌われまして、人生最初で最後の大失恋をしました。
 全人格を否定されたような気分になっている上に、高校出たら何をしていいのか分からない、あるいは人生どうやって生きていくのかが分からない。
 冷静に考えれば、まあそんなのは大学受かってから考えればよさそうなものですけれども、あの当時の成績ではどこにも行けませんでしたし、大学行かずに大工にでもなって、自分で一番早くデカイ家を建てるとか、そういう人生だってあるんじゃ? と一瞬思いましたけど、なんせ技術家庭とかは「2」ですからね。

 で、スランプになり、家に引きこもりました。
 3学期はあまり学校には行かず、自転車乗ってどっか遠いところにいったりして、廃人のように過ごしました。

 でも、今にして思えば、あれはあれで人生の通過儀礼としてよかったと思います。
 大学入ってからとか、社会人になってからとか、あるいは人によっては定年間際になってからとか、どこかでそういう経験ってしてますから。
 そういう意味では、ちょっと人より早目だったかなとは思いますが、もっと早く、例えば非行系に走ったりする子の中には、もっともっと敏感で頭もいい子が少なくないんじゃないかと思います。
 
 さて、そうはいいつつも、一応、願書は出していました。
 現役時代の受験成績は13打数1安打くらいだったと思います。
 模擬テストとかを受けて、どこの大学も合格率10%とか4%とかだったんですが、10%ということは10回受ければ1回受かるという風に、大いなる誤解をしていた節があります。


 しかし、転機は来ました。
 受験で上京した時に、やっぱりオレはここに来ないと駄目だと思いました。
 それで、早稲田の陸上部の練習を見に行きました。
 少なくともあと4年は陸上をやりたいと思いました。
 キャンパスを歩いて見て、多分、自分を成長させてくれる場所はここじゃないかと思いました。
 親には迷惑かけることになりましたが、それがスランプ脱出の瞬間でした。

 東京での浪人生活は自分にとってもいい経験になりました。
 先ほども言いましたが、僕は東高の中途半端な受験校ぶりというのは大嫌いで、同窓会も陸上部の以外は出たこともないんですが、予備校というのはまさに「それだけ」の世界なので、それはそれで楽しかった。

 浪人も捨てたもんじゃないと思いました。

 自分の才能の中で理科系の部分にはきっぱりと見切りをつけ、私立文系の勉強を始めました。
 頭の中に何も入ってないもんですから、勉強は好調で、夏頃の旺文社模試ではあと1点で全国の表に乗るという所まで来ました。
 3教科の合計点で予備校で1番になったこともあります。

 ところが、こういうついてない時期には神様仏様が、次から次へと試練を与えてくれます。

 まず、僕はまあ元理科系というのもあって、社会ではなく、数学で受験するという作戦を取っていました。
 早稲田しか受ける気がなかったんですが、自分に向いているとは思えないのを除いた2つの学部のどちらかで、数学満点とれれば楽勝という計算をしていました。
 結果は両方とも3問中、2問しか解けませんでした。

 もう1つは、夏までの模試の成績がよかったものですから、武蔵野にある某国立大との併願を考え始めました。
 もし両方受かったら、今はやりのダブルスクールでクラブは早稲田で授業はそっち・・・みたいな空想的計画を頭に描いてしまったのです。
 当時は国立に一期校二期校という分けがあったんですが、結局、夏から中途半端に教科を増やしたこともあって、合格したのは早稲田のスベり止め学部と、国立二期校だけでした。

 実は解答速報みたいなのを見て、早稲田のもう1つは、それでも受かってるんじゃないかと思ってたんですね。
 が、掲示板に自分の名前はありませんでした。
 あの時の気分は一生忘れられません。
 何のために浪人までしたのか、こんななら現役の時にちょっとやってれば受かってたじゃないか。親に顔向けできないと思いましたし、オレなんか死んだ方がいいんじゃないかとも思いました。
 呆然とキャンパスを出て、気がついたら5キロくらい都内を歩いていました。


 でもまあ、皆さん。
 何があっても死のうなんて思っちゃいけませんよ。

 歳を取るにつれ、事故や病気で亡くなる人が年々出て来ます。
 例えば、去年の夏には陸上部の同期が2年間の延命治療の末、ガンで亡くなりました。
 彼女がどんなに無念だったかとか、どんな気持ちで死を覚悟しつつ戦ってたのかを想像するだけで、甘ったれた考えは持てなくなります。

 今の世の中ですから、40過ぎてリストラとか倒産とかの憂き目にあう知人はたくさんいます。
 スランプを経験すべき時にしていない人は本当に弱いです。
 落ち込んだ友人が、たまに「死にたい」とか言って電話かけて来ることもあるんですが、「オレは死ぬくらいなら、フィリピンとかで乞食やった方が面白いと思っている。お前もそうしたらどうか? 毎年行く国を変えたら、本くらい書けるぞ」と言ってやることにしています。
 自殺するよりはマシな人生って、実はいっぱいあるんですよ。



 <PP23−4:学生時代を振り返っての提案
   C逆境の時にこそ、真価が問われる>

 僕は結局、早稲田の社会科学部という所に入学しました。
 親は国立の某大学に進んで欲しそうでしたが、どうしても陸上をやりたかったんです。
 ちらっともう1年、みたいなことも考えましたが、もうへとへとでその気力もありませんでした。
 この学部はもともと、いわゆる2部の社会科学系学部を統合した新しい学部で、授業が3時くらいから始まります。
 当時はまあ、他の学部より偏差値にして15か20くらいは低く、自分にとってはどう転んでも入れる場所でしたが、少しは嫌な目にも合いました。

 陸上部のことを早稲田では競走部っていうんですが、競走部に入部してすぐの3月末頃、何かの部の行事で始めて制服を来て電車に乗ってたら、襟に付いてるバッジを見て、酔っぱらいのおっさんが「お前は早稲田か?早稲田やけど社じゃな。社は馬鹿だから」と、延々とからんで来ました。
 後で回りの人が「あんな阿呆のことは気にするな」と言ってくれましたが、なんせ始めて制服を着た日にそれですから、「ああ、これから一体何回こういう目にあうのかなあ?オレは一生、こういう看板で生きていかないといけないんだなあ」と、思わず溜息をついたのを覚えています。

 まあその分、あの学部には、早稲田らしいというか、面白い奴や変な奴が一杯いました。
 同じ時期にいた有名人は室井滋が同期、デーモン木暮が2つ下、そして2つ上にはあの小室哲哉がいましたね。
 早稲田の場合、いわゆる老舗学部はだいたい7割くらいが、東大とかとの併願で、要するに東大その他落ち組が相当数いるんですが、本当に早稲田に来たかった奴が集まっているという意味でも、結果的にはそういう環境の方が自分には面白かったと思います。

 以降の大学生活は、多分、そんじょそこらの奴には負けないものだったと思います。

 1つには、陸上は自分なりに一生懸命やりました。
 補欠でしたが1回だけ、箱根駅伝のメンバーに入りました。
 当時の早稲田には中村清さんというカリスマ監督がおられ、僕は新入生の受験指導とかもやっていたこともあって、それなりに気にかけてもらいました。
 チームの順位は最高が3位で一番悪かった時が5位。
 4年生の時には復路優勝でした。
 当時の2級上には、モスクワ五輪に出ていたら、多分金メダルだったと思う、マラソンの瀬古さん、野球部にはさきほどの岡田さんがおられました。

 後輩ではあと、こないだのオリンッピック・マラソンで金メダルを取った野口みずきは、1年下の山本君という三重県で教員をしている奴の教え子です。
 オリンピック男子マラソンで5位になった油谷君の監督、中国電力の坂口君は2つ下で、40何位かになって沈没した国近君の監督がSB食品の瀬古さん。
 元・有森やQちゃんのコーチで、オリンピックのテレビ解説をしていた金哲彦君は4つ後輩になります。

 最近はあまり強くないですが、まあ、日本を代表する名門体育会チームの1つですから、そういう所のメンバーになれたのは、自分にとって本当によかったし、同期の長距離は6人しかいませんから、正月の駅伝なんかを見るたびに「ああ、オレたちがやってきたことを後輩が引き継いでくれているんだなあ」と思うと、結構、幸福感にも浸れます。

 2つ目には、勉強をかなりまじめにやりました。
 授業をサボったことはほとんど1回もないです。
 この学部に入ったからには、1番で出てやろうと思いましたが、練習で30キロとか走った後に学校ですから、きつい時もありました。
 勉強ってでも、得意不得意ありますよね。
 僕は暗記やマークシートは全然駄目でしたが、授業の趣旨を理解して論文や論述で自分の意見を書くようなのは、結構、個性にあっていたようで、自分でも意外でした。
 卒業時には優が40いくつかありました。
 自分より1個か2個多いガリ勉君がいて、1番じゃありませんでしたけど、多分3番くらいには入っていたはずです。

 卒論は「資本主義の過去と現在」というタイトルで、「高度成長がいつまでも続くわけがない」ということを自分なりに証明しました。
 当時は、一部の共産主義者を除いて、誰もそんなことを言っている人はおらず、皆が「高度成長は永久に続く」とか「日本経済は不滅」だと思っていた時期です。

 あの時代に学生が書いた作文としてはかなり画期的なものだったと密かに思ってます。

 3つ目には、昼間に時間があるもんですから、自活しようと試みました。
 成績がよかったものですから、2年から大隈奨学金というのももらえるようになりまして、学費も免除になりました。
 1年毎に審査があって、結局卒業まで貰いましたから、親が早稲田に納入したのは入学金と1年の学費だけです。
 バイトもしました。1・2年のうちは特にハードなものをやってみたくて、地下鉄工事・ガードマン・ライン作業・食堂の洗い場などなど。
 3・4年は某有名俳優や政治家が住む、赤坂の高級マンションの朝掃除件ボイラー点灯というのを部屋つきでやっていました。
 それなりにリッチな毎日でしたし、少なくともこれで生きて行くことはできるんだなという自信がつきました。

 4つ目には、これは競走部には内緒なんですが、上級生になってからは、同棲生活というのをやってました。
 何と大学生にして、赤坂と恵比寿に2つも部屋持ってたんですね。
 彼女とは卒業後1年くらいで別れることになりましたが、僕は実質的には1回離婚したのと同じことだと思っています。

 まあ、そんなことで、大学生活は逆境、みたいな感じで始まりましたが、それなりに充実したものになりました。
 受験の結果が思ったようにならなくても、皆が遊んでいる4年間で逆転するのは十分に可能だと思いますから、是非、そういうことも覚えておいて下さい。

 ともかく、人生にピンチや逆境はつきものです。
 先ほどご紹介した自分たちの仕事でも、1つ1つに困難やトラブルはあります。
 裁判のこととかも少しお話ししましたが、自分たちは何も悪いことなんかしてないのに、不運や困難に巻き込まれてしまうこともあるんです。

 要は、そういうものの処理の仕方というか、好転させるための「技」と「心」を持っているかどうかで、その後の人生は大違いになります。

 そういう意味では、若いうちに多少の困難や挫折があっても、そういうのを少しずつ経験していく方がいい。
 克服した経験というか、ノウハウさえあれば、後の人生、多少のことは、意外とどうってことなくなるんです。

 くじけそうになった時には、うまくいってない時にこそ、その人の真価が問われているという言葉を思い出して下さい。



 <PP23−5:学生時代を振り返っての提案
   D人生の重大決断は3度だけ>

 人生難しく考え出すとキリがないんですが、最も重要な決断は普通たった3回だけで、進学・就職・結婚です。
 だけど、皆、結構いい加減ですよね。

 別にどれがよくてどれがよくないというんではないんですが、どんな人の場合も、例えば最初の進路である進学なら進学で、地元に残るのか、大阪に行くのか、東京に行くのか、地方に行くのか、海外に行くのかで、出会う相手つきあう相手が全く違う流れのものになってしまうんですよね。

 当たり前のことですが、考えてみればものすごく恐ろしいことです。
 どこかの流れの上流には「ヨン様」がいるかも知れないのに、現実は最初が違えば、絶対に出会うことはなかったりする訳ですからね。

 仕事だってそうです。
 単純計算で、大人になってからの人生の時間の半分から3分の1くらいって、仕事がらみですから。

 中には全然面白くもないし、あんまり稼げないという仕事もありますから、まあそういう人生はしんどいですよね。
 反対に、1番いいのは、1日8時間、自分の好きな分野の仕事ができて、しかも大儲けできるようなことです。
 まあ普通は、好きなことやってるけど貧乏とか、生活はできるけど、人生の3分の1の時間は面白くもないし、自分にとってどちらかというと無駄になってるかのどちらか。
 それよりかまあまあいいのは、1日8時間、人生の3分の1の時間が、自分のためにも無駄になってないなと思いながら、それなりに生活もできるということで、自分の場合は、まあこれですね。

 結婚も、するかしないか含めて、色んな選択肢がありますよね。
 僕は42年間、一夫一婦制というのは、どこかの宗教か王様が決めた、陰謀じゃないかと思ってきましたから、したくないという人の気持ちもよくわかります。
 10年くらい前に朝日新聞で「訳あってシングル」という特集があって、そういう持論を展開したら、編集部にものすごい数の批判が来たこともありました。
 結婚するとしても「こいつでええんか?」とか、「愛を取るか安定を取るか」とか、「好きは好きだが、そいつが本当に自分を幸せにしてくれるんか?」とか、色んな選択があります。

 人生難しく考え出すとキリがない訳ですが、まずはこの3の選択をきっちりやることが大切で、もし3つのうちの1つでも、判断を間違ったら、あまりいい人生にはなりません。
 この3つに関して、皆さんには少なくともその時点で納得のいく選択をして欲しい。
 将来が大きく変わってくる局面で、いい加減な判断や変な妥協をすると、一生後悔することにもなりかねないということだけは確かです。


 で。

 大学卒業後の進路に関する話です。

 大学も最終学年が近くなると、卒業後どうするんやってことを、当然、考えざるをえなくなります。

 僕は4年間に関し、普通の大学生よりもはるかに頑張ったと思っていました。
 成績がいいだけ、スポーツだけ、生活だけ、女だけという学生はいっぱいいると思いますが、さすがに合わせ技を4つも持ってる奴はそういないだろうと。

 それから、人間には誰しも得意不得意があると言いましたが、僕は暗記や理科系やマークシ−トは全然ダメでしたが、どうやら論述や面接はだいぶ得意な方なようでした。

 作戦は2つありました。
 自分の学部からほとんど受かった人はいないらしいけれど、自分としては海外で仕事をしてみたいというのがあるので、商社と航空会社を受けようと。
 もしそれがダメだったら、ガラっと生き方を変えて、自分の腕次第でやっていける仕事か若くして人の上に立てる仕事に就こうと思いました。

 まず春先にクラブの先輩から、ある大手銀行の話をいただきましたが、これは丁重にお断りしました。
 向いてないと思ったのと、コネとかで入ると後が窮屈でしんどいと思ったからです。

 自分が何に向いているのかがはっきり分からない人は、「やりたくないこと」「なりたくない自分」をまずイメージして、消去法でやってみるというのも1つだと思います。

 学部を選ぶのも同じです。
 例えば僕は、法学部とかに行って法律を覚えるのは絶対に嫌だと思いましたし、文学部に行ってある作家の研究をするのも、全然、向いてないと思っていました。
 先生になりたいとも、なれるとも思いませんでした。
 そうやって消して行くと、ああここかここかな・・・と、いう感じになってきますよね。

 実は今の仕事もそれとよく似ていて、東京には住みたくない、朝早起きしたくない、満員電車に乗りたくない、アホな上司につかえたくない・・・みたいな、自分の絶対に「やりたくない部分」というような部分は、だいたいクリアできています。

 で。

 普通、僕らの頃は就職活動解禁は10月1日からだったんですが、皆、それなりにフライングはしてまして、僕はまず第2の人生、つまり腕次第でやっていけそうな業界として証券会社を、また、若くして多くの人を使えそうな業界として大手スーパーの内定を、それぞれ一発で貰いました。
 
 そんな時、一緒に住んでいた彼女が、バイト先で松下政経塾のことを聞いてきたんですね。
 そういえばだいぶ前にテレビでやってたのを見てたこともありまして、なんかちょっと興味を引かれましたんで、肝だめしで受験してみようかと思いました。
 就職もいいが、金儲けだけの人生は嫌だとか、もうちょっと社会のことを勉強してみたい、という気があったんですね。

 で、予想に反して受かりました。
 入ってからは「こんな奴でも受かるんだったら、当然オレも受かるわな」と思いましたけど。
 いくつか試験がありまして、最終面接は経営の神様と言われる松下幸之助さんだったんですが、別に落ちてもいいと思ってますから、好きなことを言いました。
 何とこの最終面接の基準は「運と愛嬌」があるかどうかを見る・・・というもんなんですね。
 勘弁してくれよ、という感じだったんですが、今となっては分かるような気がしますね。

 10月1日になり、いわゆる正規の入社試験の範疇では、予定通り大手商社と航空会社を受けました。
 一応、当時の人気ランキングでは1番2番とかの会社だったんですが、あの、やってもやってもダメだったマークシートは一体何だったんだと思うくらい、皆、すごく早い時期に、結構簡単に受かりました。
 友人たちからは「学部始まって以来の就職マシン」と言われました。
 後に6歳下の弟が西高から理工学部に入って来たんですが、その時ですら、まだ「お前の兄貴は伝説上の人物だ」みたいに言われていたらしいです。

 でも、実際には早く決まる奴ってのは、大体同じで多少アホでも明るい人というか、まさに「運や愛嬌」がありそうな奴なんですよね。
 政経塾の同期で、今、横浜市の副市長やってる女の子がいるんですが、彼女など松下幸之助に「まだ生きてらっしゃったんですね。私はてっきりエジソンとかの時代の人かと思ってました」なんて言って、はい合格ですからね。

 ある商社では10月3日か4日に「1発合格組」だけが集められて、最終試験で英文の音読をやらされました。
 まあすごいアホじゃないということを確認するための試験だったんだと思いますが、10人くらいいて「マーガレット・サッチャー」読めたの、僕だけでしたから。
 終わった後、皆でお茶飲みにいったら、慶応の奴でやっぱり連戦連勝の奴がいて、「おい、マーガレット先生って結局何した人なんや?」と聞いてきたので、「お前アホか。あれはティーチャーじゃなくてサッチャーじゃ。全部は分からんかったが、サッチャーの経済政策について書いた文章じゃ」と言ったら、そこにいた皆が皆、さっぱり分かってなかったですもんね。
 
 で、結局、10月いっぱい考えて、松下政経塾って所に行ってみることにしました。
 今だに、もし違う選択をしていたら、今頃どうしてるんだろうなあ、とは思います。

 「マーガレット先生」は今でもその、某一流商社で頑張ってますが、「お前ええわなあ、ええ給料もらって、デカイ家買って」とか言ってからかうと、あっちはあっちで僕の方を自由で羨ましいと言ってます。
 彼はある鉱物資源の輸入担当で、多分、日本に来ている何割かを動かしてるはずですが、忙しそうにしてるけど、オレの人生なんて明けても暮れてもボーキサイトやニッケルのことばっかなんだぞ、みたいな話をしてました。

 ちなみに、第2の人生候補で受けていた大手スーパーと証券会社は、世間を騒がせた大型倒産をして、今はもうありません。
 クラブのコネで手を挙げれば入れたかも知れない某銀行は、今は上とか下にライバル銀行の名前がついていてしまったりします。

 人生、本当に何があるか分かりません。

 もとをたどれば、陸上を選んでなかったらとか、入試の時に東京に行ってなかったらとか、あるいは行った学校と違う方に行ってたらとか、あの彼女とつきあってなかったらとか、たまたまあの時、政経塾のテレビ見てなかったらとか。
 人生って偶然の連続で、もし1つでも違う道を取ってたら、今の仕事はしてないし、全然違う所で違う女性と結婚して、いずれにせ何かをしてるんでしょうが、もしかしたら「あの時、こっちを選択しておけばよかった」みたいな思いを一生抱いてしまっているかも知れません。

 人生で最も重要な決断は、普通、たった3回だけで、進学・就職・結婚です。
 皆さんもこれから進路を決めていかれる訳ですが、できるだけ十分な情報を手に入れて、くれぐれも後悔のないように、自分に合った道を探していってもらいたいと思います。

 それと、皆さんの時代は、僕らの時代と違って、あらかじめ厳しい世の中だということが分かっていることと思います。
 でも、楽観的なようですが、他人にできない価値を持った人間になれば、社会は放っておかないと思いますよ。

 あんたは運動部だったからとか、やせてもかれても有名大学じゃないかとか思うかも知れませんが、他人にできない価値というのは、実際にはちょっとした努力次第で作れるもんなんですよ。


 根性論と誤解されると嫌なので、1つだけ具体的な例を言います。

 例えば、語学が好きな人の場合です。

 英語を完璧に話せるようになろうと思ったら、それは環境や才能が必要かも知れません。
 しかも、どこまでやっても上には上がいて、ペラペラだからといってそれでメシが食えるということには通常、ならない訳ですね。

 でも、僕も一時期やってたことがあるんですが、大学4年間で1年1ヶ国語ずつ、まあ中2とか中3くらいのレベルまででいいからマスターしていくことなら、誰にでもできます。
 英語なら英語を完璧にするのに向いている人もいるかも知れませんが、大学卒業時に曲がりなりに日英含めて6ヶ国語しゃべれれば、まあ通訳とかにはなれませんが、相手にも馬鹿じゃないとか、国際性があるとか、きちんと努力する人だというのが分かります。

 やっているうちに4種類の仲間ができるし、色んな情報が入るようにもなってきます。
 ここも重要なポイントですね。
 そうすると、合わせ技4本だか、6本だかの部分で、人生が展開していく訳ですね。
 こういう人はいかに就職難と言えども、受けても受けても、どこにも入れないなんてことはない。

 言うだけ、考えるだけとか、いじけてるだけの人は駄目です。
 「なんにもないけど、学歴もまあまあだし、皆と同じ紺のスーツ買いましたから入れて下さい」みたいな奴を欲しがる会社は、特にこれからはどこにもない訳で、大事なのは「そんな私を落とす会社は馬鹿だ」と思えるものを、自分に合った方向で、きちんと身につけていくことだと思います。、



  <PP23−6:学生時代を振り返っての提案
    E30までは何でもやってみる>

 さて、23歳から28歳までを過ごした松下政経塾というのは、神奈川県の茅ヶ崎市にあります。

 だいたい今は1年に数人、僕らの頃は16人の同期がいまして、もう200人くらいの卒業生がいると思います。
 幸之助さんの思いとしては、日本の政治を何とかしないといけない、ということでしたから、卒業生の約半数は政治家もしくは政治志望です。
 現職の国会議員だけで今、30名くらいいます。
 公明党や共産党よりもだいぶ多いです。
 現内閣では金融大臣になったのが3つ後輩です。
 その他、出世している奴は、こないだまでの内閣で、まあ僕らくらいの歳で文部科学副大臣、外務副大臣なんてのをやってました。
 外務副大臣の彼などは、イラクで高遠さんとかが人質になった時にあやうく身代わり捕虜になって命を落とす所でしたが。
 あとの自民党系の有名どころでは、今、落選してますが、経済産業副大臣だかをやってた、奈良の高市早苗とかもそうですね。

 民主党でも皆、結構な要職についています。
 この日曜日に京都で後輩の結婚式があり久しぶりに会いましたが、シャドーキャビネットの外務大臣をしてる前原誠司君は4つ後輩、副政調会長をやっていた福山哲郎君は7つくらい後輩ですね。
 地方自治ではさきの神奈川県知事や横浜市長などもそうです。

 そもそも細川さんの日本新党の時なんて、半分くらいが政経塾出身者ですから、幸之助さんが願った部分の政治改革はまあ、だいぶ実現したんでしょうね。
 今はもう、二世や大金持ちや官僚上がりでなくても、選挙できるようになってますから。
 運もよかったんでしょうね。 

 もちろん、自分自身も含めて、政治家なんか大嫌いじゃ、という奴らも半分くらいはいます。
 ベンチャー起こして長者番付に乗ってるのもいれば、国連やメディアでそれなりの仕事をしているのもいます、安室奈美恵を育てたおっさんが沖縄に作ったフリースクールの校長先生をやってた女の子や、さらにかわったのでは、「平成の坂本竜馬を1000人つくろう」みたいな運動をやっているのもいます。


 どんな教育をやってるんだというのをよく聞かれますが「自分のやりたい社会貢献の方向を見つけて、自分なりに現地現場で研修しろ」というのが基本理念なので、それほど特別な特訓みたいなものは何もないです。

 僕らの時は5年間で、1年目はまあ大学院のゼミみたいな感じのが半分。
 ただし先生はいませんので、「こんな人を呼んでくれ」という要望に応じて、そういう人に教えてもらったり、ディスカッションしたりという感じでした。
 超有名人としては、金大中さんとか、ガルブレイズさんとかも来てくれましたね。
 あと、肉体派訓練みたいなのもありまして、岩手県の雪山の中で3泊飲まず食わずで帰ってこいとか、100キロ歩けとか、社会の苦労をちょっとは知れということで、工場のライン作業や飛び込みセールスマンの研修みたいなのも4ヶ月くらいやりました。
 セールスマン研修は2ヶ月に200万売ってみろ・・・みたいな話でしたが、誰も売れませんでしたね。
 まあそういうので「本読んでるだけでは世の中のことなど分からん」とか、「偉そうにしてても俺って何もできんやんか」みたいな部分を思い知らす訳ですね。

 2年目は半年間、海外研修ってのがありまして、まあ普通はアメリカのなんとか研究所とかに行くんですが、僕はそんなんおもろないと思いましたんで、タイ・カンボジアの国境の電気とかない村で、半年間、井戸掘りをしました。

 で、その心はというと、当時はインドシナ難民とかが出てたり、ポルポトとかがいた時代なんですが、大げさに言えば、そこに行けば、いわゆる東西問題と南北問題の両方が体感できるだろうと思ったんですね。
 それから今でこそ皆、知ってますけど、当時はODAとかNGOとかいう言葉も一般には知られていなくって、そういうのが実際にどうなっているのかを、援助される側の視線で見てみたいと思いました。

 あとはやっぱり20代のうちにしかできないことをやっておきたかった。
 そういう意味では、あの時にしかできないことをやれたのは一生の宝だと思ってます。
 ある新聞には「井戸さんが井戸掘り」という、あんまりなタイトルの記事を載せられたりしましたが。

 まあそういう意味では、今のイラクとかでも、実際の現地がどうなんかというのは、普通の人以上に皮膚感覚で分かる部分はあります。
 ちなみに、高遠さん人質事件の時に、「こいつらはイラク人の敵じゃない」というビデオを放送局に持ち込んだりして、現地人脈から救出に取り組んだのが、僕の当時のボスです。
 ともかくあれから30年以上も、ずっと1つのことを続けてるんだから、それはそれですごいことだと思ってます。

 で、3年目はガラっと変わって、何かを創る練習をしようと思いました。
 具体的には、当時、神戸でポートピアという博覧会がありまして、その跡地利用をどうするかというようなことをテーマに研修しました。
 今でいうワールドとかアシックスとかコナミとかの本社があるエリアなんですが、なんぼ何でもこんなせっかくの場所をただの倉庫街にするのはもったいないではないかということで、色々と提言をしました。

 で、その時に書いた作文が一応、高橋亀吉賞というのをいただきました。
 紹介いただいたペーパーには「経済論壇の芥川賞」という、いかにも大げさな表現を使っていただいてますが、後で本物の芥川賞作品なんかを読んでみて、意外と大したことないので安心したりもしました。

 4年目にはある程度の実務能力を身につけようと思って、小さいながら自分の会社を作り「会社ごっこ」をしました。
 まあ、広告代理店のようなもんなんですが、百貨店のポスターを創ったり、面白いのでは「星に名前をつけて登録する世界組織の日本事務所」みたいなのを、何人かの仲間とやったりました。
 まあ、外国でやってる面白いものと契約して、日本で流行らせるみたいなビジネスですね。
 その時一緒にやってたメンバーがその後、けっこう成功したのが「ジュリアナ東京」というディスコでして、僕も今の仕事をしながら、名前だけの役員みたいなのをしてました。

 で、まあ政経塾4年目の1年間、そういう仕事をやって見て思ったのは、やはり大手の下請けに甘んじれば生きていけるけれど、斬新な仕事やろうと思うと、結局、自転車操業的にならざるをえないということですね。
 特にかっこいい部分というのはすぐにブームが去りますから、心底そういうのが好きな人はいいですが、結構、消耗するということが分かりました。
 あと、失敗した時はもちろん、うまく行った時も結構、仲間割れみたいになる。
 まあそんなこんなで、あの時に色々失敗したのが、今の仕事にはとてもよかったと思います。
 で、1年後にはもうちと落ち着いて、長い時間かけて自分ならではの仕事を創りたいなあ、と思うようになっていました。

 まあそんな時に、たまたま高橋亀吉賞とった作文を堺屋さんが見て、急に「お前やらへんか」みたいな電話をかけてきた訳です。
 なので、政経塾の5年目はほとんど今の仕事です。 
 これがよかったのかどうかは分かりませんが、卒論を今だに実践している、意外と義理堅い男であることは確かです。

 まあ、そんな所で、こういう人生がよかったのかどうかは死ぬまで分からないんでしょうが、色々と人にできない体験ができた20代が、自分にとって本当に得難い時間であったことは間違いありません。

 30代後半になって確信できたことですが、人間って30過ぎたら、そう賢くなんてならないんですよ。
 50歳の人とかそれなりのもんがあるんじゃないかという目で、若い頃は見てましたけど、余程努力した人か、新しい情報の量が多い特別な仕事以外は、だいたい30歳過ぎたら人間の成長ってストップです。
 野球に例えれば、球の速さが決まるのって絶対30までで、後はせいぜい変化球の数が増えるとか、コントロールがよくなるだけです。
 ごく一部に、東洋大姫路の長谷川のように、歳取っても球が速くなる人がいたり、中には投手から野手に転向して成功する人もいるかも知れませんが、まあそういうのは例外です。

 皆さんには是非とも30歳までに、色んな経験をしてもらたいと願ってます。



 以上、おこがましくも自分が人生を通して経験した、高校生の皆さんに提案できそうな6つのこと、まとめますと、

 まずは自分自身というものをできるだけよく理解する
 高校時代には勉強以外に何か1つ
 少しくらい思い通りに行かなくても、逆境の時にこそ君の真価が問われるよ
 人生の本気の選択は3回
 迷ったら消去法でやるのも1つだが、ともかく30歳くらいまでに色々経験をして、自分らしく生きていくための基礎固めをして下さい、

 と言ったようなお話をさせてもらいました。



  <PP24:結び ー これから確実に起きていく変化>

 さて。

 今日は前半戦では歴史のことについて、また後半戦では、人間、多少は時代や年齢がかわっても、大して変わらないことの方がずっと多いという前提の中で、もしかしたら、今の皆さんのうちの何人かには参考になるかも・・・という自分の体験談みたいな話をさせてもらいました。

 しかし、当然、僕らが生きてきた社会と、皆さんがこれから生きていかれる社会には違いが出てくる部分がたくさんあります。

 そこで最後には少し、世の中多分、こういう風になっていくんじゃないかと、個人的に思っていることをつけ加えさせてもらいたいと思います。

 皆さんの中には先が見えない世の中に不安を感じている人も少なくないと思いますが、訳分からずモヤモヤしてるだけなのが一番よくない訳で。

 よく言われていることばかりですが、皆さんがこれから生きている間に、確実に起きるであろうと言われている大きな変化は、まずはこの5つに集約できます。

   @少子化社会
   A国境が溶ける
   B日本の破産?
   C技術・サービスの進歩
   D地球環境の衰退



<PP25:@少子化社会>

 1つ目はいわゆる、少子化の問題です。
 僕は長期的に見れば、別に日本の人口が適正な程度に減るというのは悪いことではないと思ってます。
 日本の人口が6000万とか4000万とかになったら、結構、ゆったりしますから。

 僕の場合も子供が多いもんですから、よく「少子化問題に貢献していますね」とか言われるんですが、子供の数を年金とかとからめて論じようとする風潮が、基本的にはものすごーくおかしなことです。
 少子化問題、高齢化問題なんて言われますが、高齢化社会というのも多くの人が長生きするようになった社会ということなので、何でそれが「問題」なのかという大前提の部分が、全くもってナンセンスです。

 こんなことになっているのは、そもそも厚生省だかの秀才が作った制度設計そのものに大間違いがあったからであって、 別に少子や高齢化が悪い訳じゃない。

 そもそも、少子化社会を前提としない制度を作った官僚や政治家はほんとにどうしようもない大馬鹿です

 よく考えて見て下さい。

 少子化というのは、別に今の若い人たちがどうこうじゃなく、実は昭和ヒトケタ前後の世代である僕らの父親、つまり皆さんのおじいちゃんとかの時代にすでに始まっていたんですから。
 昭和の初めとか戦前までの人って4人兄弟5人兄弟まで当たり前だったのに、自分たちは1人とか2人しか作らなかったんですからね。
 もともとそこで、価値観というか、文化が大きく転換してたんですよ。

 冒頭で自分たちの世代のことを「さまよえる世代」と言いましたが、振り返ってれば、僕たちの親、つまりみなさんのおじいさんの世代、まあ昭和ヒトケタ前後の人たちは、子だくさん貧乏、亭主関白の明治世代のライフスタイルに愛想をつかして、少子化社会に一斉に舵を切ったんです。

 皆、子供たちにできるだけいい学歴をつけて、自分たちよりいい生活をさせたいとモーレツに働いて。
 が、高度成長のうちは仕事もポストもあったし、それぞれにいい思いができたのかも知れないけれど、仕事人間に徹した結果、その分あんな親になりたい・・・みたいなモデルを子供に示せる親が劇的に減ってしまったのだと思います。

 その子供が僕らの、つまり皆さんのお父さんお母さんの世代です。
 バブルが崩壊して、つぶれないと思ってた自分の会社がつぶれたり、自分が原辰徳じゃないけれどリストラされる側になって、一生懸命勉強して得たポストって何やったんや? とかと思い始めているのが、正直なところ僕らの世代だと思います。

 だから、東高の教育方針に多分背くであろう本音を言えば、僕は別に自分の子供に勉強すればいいことある、なんていう気にはとてもなれないんですよね。
 とりあえず真面目に勉強するのはいいとして、「いい学校出てサラリーマンになるのが一番いい」とは思わない方がいいと思ってますから、まあ芦屋では塾行ってない子はウチのだけだったりする訳です。



 しかし。

 現実問題としては、少子高齢化によって、いくつかの制度はどう考えても破綻します。

 ちょっと問題を出しますから、答を計算してみて下さい。


  <PP26:問題>

 ある高校のクラブでは3年生の卒業時に1・2年生が1万円ずつ出し、プレゼントを贈ることが恒例になっていました。

 Q1)各学年の部員がそれぞれ常に10人だとすると、在学中に負担する金額と受け取れるプレゼントの金額はそれぞれいくらでしょうか?

 A:2万円

 Q2)「少子化」により、2004年から新入生が1年に1人ずつ減っていくことになりました。従来どうりの方法により集まった予算で、3年生にプレゼントをするとすれば、現状の2年生10名は結局、この「制度」のためにいくら負担し、いくらのものを受け取ることになるでしょうか?

 A:2万円払い、1・7万円のものを受け取る(17万÷10人)

 Q3)同じケースで「出した分のプレゼントを受け取るべきだ」と3年生が言い出した場合、05年の新入生(8名)は1年目にいくら負担しなければいけないでしょうか?

 A:11765円(20万÷17人)


 はいよくできました。

 なんですが。

 実際の年金問題は、OBが生きている限り後輩から貰い続け、しかも皆長生きだったり、インフレや資金運用がうまくいってた時代があったため、自分が払った金額以上に受け取っていたり、支払う側かあすると収入が経済成長時のように増え続けるメドが全くつかない訳ですから、もっと悲惨な感じになってるんですね。

 先日、ある国会議員に「なんで年金の未払いは2年間しかダメなんか?」と聞いてみたら、皆がずっと前の分を払って全額受け取ろうというようになると、かんっっっぜんに破綻するということらしいです。

 話を戻せば、さっきの何とかクラブの贈り物破綻問題の犯人は、別に新入部員が減ってきたこととかじゃありませんよね。
 新入部員が減ってきたせいで年金はもちません・・・みたいなすり替えは責任転嫁もはなはだしい。

 結局、こんなアホな制度は税金注入してでもどこかでご和算にするか、もし「制度」を温存していこうとするなら、部員を増やすしかない訳ですが、国は何もしていません。
 本気でこれ以上、出生率を下げたらまずいと考えているなら、変えた方がいい制度が最低100個あるにもかかわらずです。

 例えば日本では「産みの苦しみ」なんて言葉がありますが、外国では出産の時、普通に麻酔打ってますよ。
 何でそういうものが禁止されていて、女だけがそんなしんどいことやらなくちゃいけないのか


 あるいは。
 僕は1日何時間かを税金のために働いてますし、公立の保育料だけでも2人で100万以上払ってるんですが、例えばこれが、少子化対策に成功しつつあるフランスなら、皆、保育所はタダですし、税金の額は家族数割りなので、ほとんど払う必要はなくなります。
 おまけに3人目はいくら、5人目はいくらという風に、自分の場合はざっと20万円近く貰える。
 全く同じことしてても、ざっと年間500万近い差が出るんです。

 別に福祉に厚い国がいいということを言いたい訳じゃありませんが、人数が減り続けているという事態を何ら改善しようともせずに、やっていることが「大学生になったら年金に強制加入」みたいな話だけというのでは、あまりにも無策すぎるという感じがします。


 <PP25に戻る>

 そうはいいつつも。
 もう1つつ最近、思い入った話をつけ加えれば。

 それぞれの個人的な問題として、本当は皆、どう思ってるんだろうなという部分はありますね。

 というのはですね。
 僕らの世代の女性はまあ、キャリアウーマンの走りの世代で、多くの若い女性があこがれるような立場の人も何人か知ってますが、最近よく「時代に流されて必死でやってきて、それはそれで面白かったけど結局、私たちって無縁仏よね」というような話が出るんですよ。
 「負け犬」ってのあれ、冗談めかして書いてますけど、けっこう冗談じゃないっす。

 この先、もし仮に女性が2人に1人しか子供産まなくなるとすると、今生きてる人の中で子の世代での無縁仏率は50%ということになります。
 で、孫世代で25%、ひひ孫の代になると、16人中15人が無縁仏ということですね。
 考えて見れば結構、恐ろしい話ではあります。

 僕は一定の才能を持っている女性はもっと自立すべきだと思ってますし、男は働いて女は家でいいなんてのはズルイとすら思っているくらいなんですが、だけれども、女性の皆さんに「老爺心」で申し上げると、結婚するしないはともかく、子供を持つか持たないかはよく考えておいた方がいいと思います。

 僕は長期的には、日本人が今の半分くらいになっても、その位の範囲で止まるのならそれでもいいと思ってます。
 が、一方では、若いうち、どちらかというと得することが多い女性たちの中に、調子に乗って出産期限を忘れていたという大人たちが一杯いる。
 特に女子生徒の皆さんは、そんな実態についても知っておく方がいいと思います。



 <PP27:A国境が溶ける>

 2つ目の変化は、国際化の進展のような話です。

 今日お話しした歴史の話の次に来る、明治以降のお話としては、日本社会そのものが、どんどん国際社会というものとの関わりを抜きに成り立たなくなってきているということがあると思います。

 バブル崩壊もイラクへの派兵みたいな話もそうですね。

 日本には2回原爆が投下されましたが、もしあの時代にロシアの参戦や後の「東西冷戦」の予兆がなかったら、2発目のはいらなかったかも知れないですね。

 んな中で。
 国際社会に関するいいお話からしますと、もしかしたら大きな戦争は、このイラクのが最後かも知れないという可能性が出てきていますね。

 テロやチェチェン問題みたいな独立運動が、内戦として起きることはありえます。
 ロシアも中国のチベットとかもそうですが、そこの独立を認めたら、後へ後へで無茶苦茶になってしまうというのはあって、特にチェチェンの場合は埋蔵資源の問題とか、歴史的怨念とか、麻薬ルートのこととか、色々な背景があるようですね。

 でも、そういうものはしばしば突発するとしても、僕はこれからは、ブッシュみたいなああいうバカなことはもうできなくなると想います。

 北朝鮮についても、多少の批判はあるでしょうが、すでに国交回復以外に拉致問題の解決はなくなってきていると思いますし、従って、それをもって、日本への直接的な脅威は「テロ」をのぞいてはなくなります。

 この間、韓国で核開発疑惑のようなものが出て、北朝鮮がテポドン発射のポーズのようなものを取りましたが、両者とも「あれはあれでおしまい」という感覚でしょう。

 先日、ベルリンマラソンをやってましたが、ほんの15年前まではあそこに壁があったんですからね。
 60年前までは若者が兵役に取られ、日本だって北朝鮮を決して笑えないような社会でした。
 また400年前までは兄弟で寝首をかいたりしていた訳ですから。
 「戦争や殺人なんかしてもしゃあない」と思える世の中が来つつあることは、人類史上初の大進歩だと思います。


 次に。

 半分いい話としては、日本は落ちぶれたとか何とか言われていますが、まだ依然として、世界の一等国だということがあると思います。

 為替のマジックというのもあり、例えば関西2府6県だけでまだ、G8だかに入っている、カナダ1国よりもGDPは大きかったりするんですね。
 僕は円の実力はせいぜい1ドル176円くらいで、そのくらいでやっと生活水準は欧米と釣り合うと思ってるんですが。

 ともかく今もって、金持ち国であることは事実だし、少なくとも海外旅行とかに行けば、それなりにいい思いはできます。
 なので、皆さんも日本は落ち目だとしょげるのはやめて、せいぜい今のうちに、被れる部分については、その恩恵みたいなものを被っておく方がいいと思います。

 今は中国がバブル気味で、そのあおりで日本の景気も上向いて来ていると言われているようですが、そんなものはいつまで続くか分かりませんから、今こそ憂鬱になってる場合じゃない。

 8月20日でも、25日でも、夏休みは夏休みなんですから。


 で。
 一等国ってのはどういうことかと言うと、要するに国民の給料が高いということなんです。
 しかし、給料が高いということは人件費が高いということでもありますから、当然、おめでたい話ばかりとは限りませんね。

 人件費が高いからこそ戦えなくなる業態が出てきます。
 例えば、年収1200万円のスッチーを乗せてる飛行機会社が、120万円を乗せてるのと価格競争できる訳がない。

 今もなんとか島がどっちの領土だなんてのでもめてますけど、魚なんか周辺国の人に取ってもらった方が安くていい、なんていう世界は厳然として存在している訳でして、そういう意味での国境はもう溶けてきてしまっています。

 さらに、ここに来て。

 ここ10年の変化として、途上国や低開発国だってそれなりのことができるようになって来ました。
 ちょっと前までのサラリーマンは、海外出張は日本航空でしか行かないもんだと皆、思ってたようなんですが、今はよほどの低開発国のにでも乗らない限り、サービスとかも遜色ない。
 ユニクロのシャツだって、ちょっとやそっとでは破れません。
 製造業に関しては、日本のメーカーがあちらの工場にいい製造機械を輸出したことなども原因してるんですが、一部をのそく製品やサービスに関しては、どこでも共通に近いものが生産できるようになってきました。

 労働市場の国際化というと何だかかっこいいですが、要するに、工場のおばさんのライバルは、だいぶ前から中国人やベトナム人だったというようなことです。
 日本の労働者にも、周辺に日本という一等国のベストのお客様がいるという有利な条件は残りますが、一方ではこれからますます、生産や付加価値の高くない仕事を、別に人件費が高い日本人にやらせる必要はなくなっていく訳です。


 自分は姫路だから関係ないと思うかも知れませんが、新日鐵広畑なんてまさに他人ごとじゃありませんよね。
 工場閉鎖や企業の業績悪化で日本が落ちていけば、当然、もっぱら日本人を相手にしてきた人たちにも、じわじわと不況が広がっていきます。


 ってことで、これからは付加価値の低い仕事しかできない日本人にはますます、決定的に厳しい時代がやってくる。

 さらにここ10年、同じような流れがエリートみたいな人にも押し寄せて来てます。

 ほんの10年前までは、韓国人の大卒年収は日本人の半分、中国人は5分の1くらいでいいという時代があった訳ですが、そんなものはもう遠い過去のお話になりつつあります。

 ある程度以上に勉強ができる人たちを比べれば、はるかに彼らの方が優秀だし、ハングリー精神というか、上昇志向も全然違いますから。
 僕らでも、申し訳ないけど、同じ大学生を採用するなら、あちらの国からの方が全然いい、と思ったりしますもん。

 要するに、経済が国際化すれば、エリートから工場のおばちゃんまで、皆がその競争の中にさらされるという訳です。

 人件費に見合う付加価値が高い仕事ができない人は戦えない。

 ・・・そういう国際化の波の中で、皆さんは何とかやっていかないといけないんです。

 同じことばっかり言うようですが、なんとか大学やなんとか会社に入ることだけで、いい人生が待ってるなんて思ってたら、多分、皆さんの世代は、僕ら以上に大間違いな目にあうと思います。

 皆さんのライバルは別に、西高や白陵で「シケ単」とかやってる人たちじゃなくて、実際には中国やインドにいるということを忘れないで下さい。



  <PP28:B日本の破産?>

 次に、3番目。
 国内の政治経済のお話です。

 僕らの時代と皆さんの時代が全く違ってきているのは、日本の借金、あるいは地方自治体の借金が、そろそろ返済不能なあたりまで来ていることです。

 どのくらいひどいかと言いますと。


  <PP29:財政図表>

 日本財政の危機的状況は「最小でも」この図にある通りです。

 月収54万円(税収などの歳入46兆円)の人が76万円の生活を送り、しかも、それ以外に21万円のローンを返さなければいけない状態にある(一般歳出は計64兆円)ため、月々の借金(公債費)は43万円(18兆円)になる。
 たまりにたまったローン(公債残高)はすでに6800万円(483兆円)です。


 生活費のうち約4分の1は田舎への仕送り(地方交付税交付金=16兆)なんですが、これをなくしたら、自治体はもたないし、借金も返せない。
 で、早く合併しろ、さもないと仕送りは中止するぞ、みたいな話になってきているんですね。


 ネットで「日本の財政」と引くと、今の借金がどのように増え続けているかのメーターみたいなのを示したページがあるので、是非、見てみて下さい。
 国と地方の借金の合計は国民1人当たり700万円近くで、しかもそれが1秒ごとに見る見る増え続けてるんですから、結構絶望的です。

  政治家と霞ヶ関の秀才の皆さん、それにしても、よくぞここまでやってくれましたねという感じがします。


<PP28に戻る>

 目下のところの悪者扱いは高速道路とかですが、まだ「全ての人にとって、あるに越したことがないもの」を残しているだけいい。
 戦後の公共事業というのは悪いことばかりではなく、結局の所、地方の農業人口を労働者として吸収する役割を担ってきたんですから。

 しかし、もはやそれを今の水準で継続することは絶対に無理です。

 むしろそれ以上にヒドいのは、地方を借金漬けにして、さんざん要りもしないハコモノを作らせてきた自治省。今はありませんが、そもそもなんで「自治」が省なんですか?
 次に、市場経済とは遠い所で産業を守ってきた農水省。
 あえて加えれば、納税者よりも「弱者」の方を向きすぎた福祉政策の行き過ぎもあったと思います。
 政治がらみの「エセ弱者」が多数存在しているせいで、本当に困っている人たちに十分なお金が回っていなかったり、あるいは保育料タダの自営業者がベンツ乗ってたり、年金よりも生活保護もらった方がマシみたいな話などなど、もう無茶苦茶な状態です。

 これら全ての背景にあるのは「税金産業」や、福祉を含めた利権にむらがってきた政治家たちの存在です。

 これからは、ともあれ造ってしまったハードは何とか活用していかないといけないとは思いますが、いずれにせよ「小さな政府」と「地方分権」を実現していかない限り、日本はもう絶対に持ちません。

 だとすれば、これからは国や行政任せでなくて、例えば地域単位で、自分たちのことは自分たちでやる、みたいな世界も必要になってくるのだと思います。
 イタリアのNPOがやっている事業に「時間銀行」というのがあるんですが、例えば、よその老人を介護した2時間を貯めておいて、その分、子守りしてもらうことで返してもらうというようなことですね。
 日本でも、本来はお金のやりとりや行政サービスを通してやってきた部分を、自分たちの得意分野で担い、しかもそれが単なるボランティアに終わらないような仕組みを考えていく必要があると思います。
 今でも、主婦や老人など、何かができるにもかかわらず暇な人っていうのが余ってる訳ですから、これを活用する以外に、行政サービスをカバーしていく方法はないと思います。


 まあこの点に関し、僕らの時代と皆さんの時代で、いい方に違ってきている要素は3つくらいでしょうか?

 1つはもう、あんまりモノを造らなくてもいい、ということですね。
 笑うかも知れませんが、僕らが子供の頃は山陽新幹線すらなかったんですから。

 もう1つは、どうやら自分たちの一票で政治を大きく変えることができるかも知れない、という時代になってきていることです。
 別にどこの政党がいいというのは言いませんが、そういう意味では、皆さんは選挙権を持ったら、必ず選挙に行ってもらいたいと思います。
 今の政治は結局のところ、そういう公共事業とか福祉とかを含めた「税金で食っている人々」と「税金を取られるだけの人たち」の戦争です。多くの皆さんが棄権すれば、それこそ「税金を食いものにしている人たちの思うツボ」で、組織票やら何やらで、日本の病状は悪化する一方で、結局、痛い目を見るのは皆さんの世代です。
 そういう意味では、カンでいいから、よさそうな人にとにかく投票するということには、一定以上の意義があると思います。

 さらなる最終兵器としては、唯一確実にそういうのの被害を受けなくてすむ方法として、税金を払う国を自ら選ぶことができる時代に入ってきているとも思います。

 どうもこの国では真面目にやっている人が馬鹿を見ている感じがするんです。
 日本の場合は、資本主義的に行くのか、社会主義重視で行くのかが中途半端で、そのしわ寄せが全部「税金を取りやすい人」のところに来ている。
 相続税なんてのは本当に残酷だと思いますよ。完全な財産収奪ですからね。
 年金よりも生活保護もらう方が、ひょっとすると額が多くなる、みたいな話も、本当にひどい。
 税の取り方だっておかしい。

 みたいなことを含め、まあこの国があまりにヘボでアホらしいと思えるなら、これからは日本国籍を捨てるという選択なんかも大いにありです。

 少なくとも僕は、自分の子供たちには、日本にとどまって知らない年寄りの面倒見たり、どこに消えたか分からない借金をお前らの世代で返すべきだなどと言うつもりは、一切ありません。

 日本国籍を捨てるというような話を極端だと思う方も、特にこれからの日本は「乱世」ですから、いつ無茶苦茶になってもいいように貯金はドルでやっておく、みたいな感覚を持っておかれる方が、僕はいいんじゃないかと思ってます。



 <PP30:C技術やサービスの進歩>

 4番目。

 これは当然のことですが、皆さんの時代には、僕たちの時代以上に早く、色んな面で進歩した技術やサービスが確実に登場していきます。

 当然、いい面はたくさんあります。
 携帯やネットができてコミュニケーションが変わったとか、大阪まで30分で行けるようになったとか、バイオとか、ナノテクとか、これから花形になっていくであろうと言われている分野もたくさんあります。

 しかしそういうのはいいことばかりではないですね。
 いらなくなる業態が相当に出てくる。
 サービスで例えると、コンビニができれば近所の八百屋や文房具屋がつぶれ、スタバが来れば駅前の喫茶店がアッという間に姿を消したりという話です。
 残って行ける同業種は、味やらサービス内容やらで「是非もの」を持ってる店だけになりますね。

 高いけど味が抜群だとか、おっちゃんがおもろいとか。

 逆に言えば、「是非もの」と言える部分を持っていれば、情報通信や流通が発達すればするほど、例えば、地方にいるハンディなんてのはあまりなくなって行くのかも知れません。
 身近なところでは、西松屋とか、御座候とか、メガネの三城とかが、かなりの成功をされている訳ですからね。

 今日も自分のもしかしたら就職することになったかも知れない会社が、今はもうなくなったみたいな話をしましたが、これからはそんな風に、「伸びるビジネス」と「いらなくなるもの」が、僕らの時代以上に、結構、明確に出てきてしまうんだと思います。
 しかも、皆さんの時代にはそのスピードがいっそう早くなっていくんでしょう。

 例えば、今でも人気ある業界でも、テレビ局なんてのがこれからどうなっていくかは、けっこう怪しいですよね。
 今やテレビを見る時間より、ネットや携帯やってる時間の方が多いという人がザラにいますから。
 少なくとも、コマーシャルとって番組作るというビジネスモデルがいつまでも通用するとは限らなくなって来ている。
 逆に、例えばヤフーのポータルサイトに50%の人が来ることになれば、今度はヤフーが最低でも三菱あたりを子会社にして、ヤフーブランドの新車を作ったりできるようになるかも知れないですね。 

 まあ、そういう具合に、技術やサービスの変化は新しい雇用は生み出しますが、古い雇用を減らしていく。
 新しい雇用が失業よりも多ければ何も問題はないんですが、そうならない場合は一体どうなっていくのか? という気がしますが、少なくとも、日本のような先進国では、新しい技術やサービスがもたらす失業は、どう考えても多分、新しい雇用よりも多いでしょう。

 昔のように公共事業で古い雇用を吸収するのも難しいでしょうし、商店街のおじさんが年取ったから商売たたむわみたいなノリで、福祉に頼る人がこれ以上増えると、財政は完璧に破綻するでしょう。
 
 そうなれば、もはや日本もいずれかの時期に、ヨーロッパでやっているような「ワークシェアリング」に踏み切る以外になくなるでしょうね。

 社会に必要な労働時間を一定だとすれば、各自が1割ずつ減らせば、今働いている総人口の9分の1の雇用が新規に確保できる訳ですから。
 一人当たりは1割ずつ貧しくなる訳ですが、そういうのも受け入れていかざるを得なくなると思います。
 サイフは少し軽くなったが、自由な時間が増えたというのは、多分、多くの人にとって悪くない人生です。

 その時間をどう使うかによって、社会がよくなることも、サービス産業が新たに発展していくようなこともあると思います。



  <PP31:D地球環境の衰退>

 さて。

 変化話の最後としては、ご承知の通り、地球環境が確実に衰退してきていますね。

 温暖化が言われてましたが、昨年あたりから、秋の紅葉の時期が、木の種類ごとにバラバラになってしまって、明らかに山の色が変わりました。
 夏に何回も台風が来る、みたいな話もそうです。

 そろそろ黄信号から赤信号点滅というレベルじゃないか・・・と考えていくべきだと思います。


 石油が一体、いつまで持つのかというような話もあります。
 新型新幹線を開発した人に聞いたんですが、もし液体燃料が使えなくなっても、船や電車を動かすことは可能だが、飛行機は絶対に無理なんだそうですね。

 そういう意味では、皆さんの人生は多分どこかで、抜本的にライフスタイルを見直すことを余儀なくされる可能性が大です。

 ゴミを分別しないといけないとか、タバコの煙を人にかけるなとか、そういうセコイ話ではなく、エアコンとか、車を持つとか、新聞を取るとか。中国やインドの人たちが皆、同じことするだけで、地球全体がボロボロになってしまうかも分からないようなことを、我々、さんざんやってきている訳ですからね。

 そういった変化については、絶対に受け入れていかざるをえない。

 対策はまあ、それぞれにやるしかない訳ですが、やはり環境破壊に荷担している企業には環境税を課すような世界も必要になるでしょう。
 僕は税金は原則的に皆、消費税に切り替えて、皆である程度平等に負担するようにすべきだという方なんですが、同時に、環境破壊行為をしている企業からは、所得税に準ずる環境の保全や回復のための資金を徴収し、技術の改善に対する補助もするという方法くらいしかないでしょう。


 一方で。

 最後にちょっとだけ大きく言わせてもらうとですね。


 不安がってモヤモヤしているだけじゃなしにですね。
 あるいは、ただ延命治療を施したり、「座して死を待つ」ような話ばかりじゃなくてですね。

 そろそろ新しい社会にふさわしい考え方とというか、日本がこれから何で先進国になろうとしているのかの方向を、しっかりとうち出していく必要があるんじゃないかという気がするんですよね。

 皆さんご存知のように、明治政府のスローガンは「富国強兵」でした。

 が、「強兵」は第2次大戦で挫折。
 「富国」はある程度うまく行ったけどバブルで挫折して、すでにもう、良くも悪くもこうなって来ている以上、皆で目指そうよという話にはなり得ません。

 その後「所得倍増」なんていう時代もあって、まあ実際にそれも実現した訳ですが、
そういう明治時代や高度成長時代のノリをいつまでも引きずり続けることは、もはやどうあがいても無理なんです。

 今日は前半で歴史の話をしましたが、歴史には、後から大局的に見れば 必然的にそうなったという部分の方がずっと多いんですね。
 なのでそういう部分を見ていけば、100点は取れなくても、遅かれ早かれ未来に起きるいい面、悪い面についてのおおよその予測はできます。


 じゃ、一体これからは何なのかと言えば。

 うまく言えませんが、多分重要なのは、環境や資源や労働のシュアリングやコミュニティや戦争をやらないといった「共生」の社会。
 それから、小さな政府、地方分権、自分たちのことはできるだけ自分たちでやるといった「自立」の社会を目指していく以外ないのかなという気がします。

 「自立」や「共生」というのは、言葉的にはえらく陳腐ですけど。
 そういった方向を覚悟したり受け入れたりするだけじゃなく、できればうまく先取りしていくようなことが、将来、何か自分にもできないものかと考えて見てもらいたいと思います。


 話の方はこれでおしまいです。

 歴史の話から未来のことまで、色んなことを話させていただきました。

 皆さんの世代は、確かに就職とかは僕らの頃に比べれば大変かも知れませんが、いい大学入るのは、悪いけど皆さんの方がはるかに簡単だし、何よりも今はやり直しが利きます。
 皆さんの時代がますます、いい学校行ったら何とかなる、なんてことはなくなる時代であることは事実ですが、いい学校行ってサラリーマンになるのが一番いい、みたいな幻想から離れれば、色んな選択ができると思うし、また今は、勉強したくなればいつでもできるんです。
 だから、焦らずに、いい高校生活を送って欲しいと思います。

 どんな時代でも、他人にできない価値を持った人間を社会は放っておきません。 

 願わくば、「自立」でも「共生」でもいいですが、皆さんのうちの何人かが、そういう新しい社会を創っていくことに関わって下さるように、また、さらにできれば、この滅び行く地球を何とかしていくような人が、皆さんの中から出てきてくれればと願っています。

 このような機会をお与え下さった岸本校長、お手伝いいただいた井上先輩始め各先生方やPTAの皆様、それに「台風で休みになればええのに」と思いつつもきちんと登校して下さった皆さんに、心からの感謝をしたいと思います。


  <終了>