バングラデシュの農村(1984)



 最近、ODA(政府開発援助)に対する議論が、ずいぶん盛んになってきた。
 「効果があろうがなかろうが出すのが外交」という割り切り方をする人もいるが、「出すだけじゃダメ」だという点には、すでに多くの人が気づいてる。

 でも84年当時は、ODAの質や中味に関する議論は、ごく一部の専門家の間をのぞけば、全くと言っていい程おこなわれていなかった。

 国民の多くがODAという言葉を知るようになっただけでも、当時を思えばものすごい進歩だと思うけど、
一方では、実は今だに相変わらずといったことの方がずっと多いと思う。
 現地情報が絶対的に不足しているという点、
情報を積極的に収集、良心的に分析・判断し、かつ資金を適切に配分する人が全く不足している点など。

 ODAには、当時でも日本人1人あたり8千円弱(4人家族で3万円強)の税金が投入されていた。
 今は当然、もっと多くなっていると思う。
 タイでも色々経験したことだが、僕はそのお金の使われ方が、ちょっとおかしいんじゃないかという疑問をもっていた。


 で、松下政経塾の3年生の時、
アジアの最貧国といわれ「援助の実験室」とも「援助漬けの国」ともいわれていたバングラデシュで、
調査のようなことをさせてもらうことにした。
 期間は3週間ほど。

 以下は、いささか古いお話で恐縮で、大きく改善されている部分があると思う。
 でも一方では、全く変わっていない部分、
あるいはかえってひどくなってしまっている部分も多いのではと想像する。


 


 バングラデシュには、北海道の1.8倍の国土に9千万人(当時:以下についてもほとんどの数字は当時のものです。すみません)が住んでいる。
 首都はダッカ。
 あれきり行ったことがないので、今はどうなっているのか分らないが、僕の第一印象は「独特の不健康なム−ドを持った街」。
 援助によって作られた近代的な建物の周囲には、その日暮らしの無数の民衆がうごめいていた。
 何だかものすごくアンバランスというか、さすが「自立していない国」の首都だなという感じがした。

 バングラデッシュには年間20億ドルもの海外援助が流れ、当時は国家財政の7割以上がそれで賄われていた。

 で、この国では援助が途中でどこかに消えてしまい、一説には、実際に底辺の人に届くのは5%だとか。

 国民の約9割は農民だ。
 当然、彼らの生存は耕地に依っている訳だが、にもかかわらず、土地なし農民が約3割。40ア−ル以下の零細農民が4割もいる。
 で、人口の7割が「貧困ライン」(2150カロリ−)の下、4割が「絶対的貧困ライン」といわれる1850カロリ−以下にあると言われてた。
 最下層の人たちは慢性的な栄養不足状態にあり、これが飢饉などの時の「悲惨な結果」を生むという訳だ。

 驚いたのは、実は食料の絶対量そのものは不足していない、という説があること。

 じゃ、なぜそんな貧困が生じるのかというと、第一の原因は高い小作料。
 要は食うや食わずの状態まで「搾取」されちゃってる訳ですね。

 第二の原因は収穫された米が、地主や仲買人への金の流れに逆流して、都市に集中してしまうから。 
 現地で開発ワ−カ−をしているインテリが言ってました。
 「農村の貧困をPRして世界中から集めたお金は、結局は都市の一部の人間の所に落ちていくのさ」って。

 (下の左の写真は高級住宅地の風景)

 で、日本の対バングラデシュ援助は82年で(しかし古いデ−タだね)2億1580万ドル。
 対バングラデシュ2国間援助の中では1位とも2位とも言われていた。
 まあこの国の「発展」とあわせ、「社会構造の維持」にも、ずいぶん貢献してる訳だ。

 ところが。
 政府の現地援助担当官はたった3人。
 「途中で消える」分を別にしても、これでは援助の中心が商社や建設会社やブロ−カ−が主導するところのハ−ド事業になってしまい、
その恩恵も都市中心になるのは当然の理だ。

 右下の写真・奥にあるのが、日本政府の援助で作られた超高級ホテル。
 地方からのものすごい数の「流入者」がホ−ムレスとなり周囲で生活する、中央駅も「日本製」だ。
 もちろん、首都なんだから一つくらいは立派なホテル、近代的な駅が必要だってのも、それはそうかも知れないけれど。

 


 で、一週間ほどブラブラしたり、十人くらいの人にインタビュ−した結果、だいたいの構造的矛盾が把握できた(気になった)。


 次は農村に行ってみよう。
 ダッカに事務所をもつ「シャプラニ−ル」というNGOにお世話になり、彼らがプロジェクトをやっている村を紹介してもらうことにした。

 東京のラッシュ以上と思われるマイクロバスで5時間。(「以上」というのは網棚の上や椅子の下に子供や赤ん坊がいる状態をさす)
 そこから舟と歩き(下の写真)で2時間のところに、その村があった。
 北部のジャマルプ−ル県、メランダ村。

  


 村には2週間くらい滞在した。
 ダッカでもそうだったが、ここでも外国人はものすごく人気がある。
 単に皆ヒマで、物珍しいだけなんだけど、ちょっと散歩するだけで、多い時は3-50人位の人たちが付いてくる。
 僕は窓に鉄格子のついた納屋みたいな所で寝止まりしてたんだけど、昼間は常時、左下の写真のような状態。

 ある時、雨が降って、部屋の中で折りたたみ傘たたんでたら、窓から「お--」という大歓声がわいた。
 当然、現地にはそんな最新式(?)のものなんてないから。
 で、翌朝、メシ食って帰ってきたら、誰かがもってってなくなっちゃってた。
 もちろん、カギかけてたのに。

 期間中の数日間だけ、アジアでの農業指導をやりたいっていう人といっしょだったけれど、彼らが前回、10人くらいの団体で来た時の話も傑作だったな。
 バングラデシュで一番盛んなスポ−ツは文句なしにサッカ−。
 で、バスを降りたさっきの街で、皆が「今日のサッカ−の試合見に行くの?」「楽しみだね」みたいな話をしてた。
 それで言葉できる奴が「何かサッカ−の試合あるの?」って聞いたんだって。
 そしたら「日本から有名なチ−ムが来る」っていうから、皆で「へ-、有名なチ−ムってどこなんだろうね」って言ってたそうです。

 で、2時間かけて村についたら、今から親善サッカ−だって言われた。
 要するに噂に尾ひれがつきまくって、彼らはニッポン代表の「有名チ−ム」にされちゃった。
 (ガンバレ、ニッポン!!)

 それで皆、 「オレ、サンダルしか持ってね-よ」とかぶつぶついいながら広場に行ったら、
まだ1時間も前なのに、近隣の村からも2000人くらいが集まってて、
「ナショナルチ−ム」みたいな立派なユニフォ−ム着たガキどもがパス練習か何か始めてた。
 皆、真っ青になって、「できない」とか「サッカ−やったことない」とか訴えたんだけど駄目で、結局、試合して「大観衆」の前で赤恥かいたんだって。

 


 さて、当然、ここの村には電気もなければ水道もない。
 でも、この国は水に恵まれているので、米はある意味で自然に取れる。(左下の写真)
 その意味では普段はさほど大きな問題はない。
 高い小作料とあいまって、栄養水準が低いことは事実だけれど、別に年がら年中「飢えてる」訳じゃない。。
 日本人の多くはまだ、このあたりのことを誤解していると思う。

 もちろん、水に恵まれた国だからこそ、たびたび大洪水が起きる。
 結果、多くの餓死者が出てしまうこともある。
 何せ普段から結構、ギリギリの生活やってるんだから。
 要するに、問題点の一つは、彼らの社会構造そのものにあるということだ。

 で、現地の生活にだいぶ慣れたある日、諸悪の根源と目される大地主の家に行って見ることにした。
 一体、どんなヒドイ奴なのか、ちょっと話をして見ようと思った訳。

 すると。
 そこには何とナショナルのテレビが置いてあり、「やっとこれが買えた」という、人なつっこいおっさんがいただけだった。
 (右下は大地主一族とテレビの記念写真)

 僕はナショナルの創始者である松下幸之助さんが作った学校に入り、ある意味でその「チャンス」を活かしてバングラデシュに来た。
 で、そこの大悪党と対決するつもりが、出会ったのはナショナルのテレビ。
 これは一体、どういうことだ?

 当然、松下さんの富や信用は多くの人の汗や涙の上に築かれたものだ。
 とすれば。
 自分たちの立場はまぎれもなく、製品を買いたいと願う世界の人、そしてそのために「搾取(?)」されてしまう人、街で働く下請け企業の人、さらに松下電器のサラリ−マンの人たちまでも含めた「大搾取(?)」体系の上の方に位置している存在だってことになる。

 自分がたまたま恩恵に浴させてもらっている、「チャンス」の意味がわかって、ものすごく悩ましく複雑な気分になった。

  



 さて、「シャプラニ−ル」の活動は、当時、同じようなNGOに所属していた僕から見ても、よく考えられた素晴らしいものだった。
 リ−ダ−によると、初めは「黒柳徹子型」の緊急援助が中心だったらしい。
 で、次に、僕たちがタイでやってたような「ベ−シック・ヒュ−マン・ニ−ズ型」のようなこともした。
 左下の井戸はその時のもの。
 でもやっぱり、結局は住民の「自立」の問題にもっとダイレクトに切り込んでいかなければ駄目だということになったそうだ。
 で、この村を一つのモデルに、村人主導で色んな事業を展開しているのだ。

 右下の写真は識字教育と「計算」のプログラム。
 黒板に「足し算」のしかたが書いてあるのが見えるでしょ。
 要するに、基礎的な教育機会がないと、地主との交渉もできないし、弱者の状況は変わりようがないということなんですね。

  


 次の左下は「備蓄庫」。
 洪水などの飢饉に備えるため、皆で供出している。
 これも基礎的な教育がない人には、初めはなかなか理解されなかったらしいけど。

 右下はテキスタイルの製品づくりを始めたグル−プの皆さん。
 特に若い人は、皆、美人なんだよね。この国の人。

 


 こういう運動が全土に、それこそアメ−バ状に広がっていくといいんだけど、もちろん容易なことじゃない。

 実は「シャプラニ−ル」は小規模な団体で、業界での規模は僕らがいたところの方が数十倍は大きかった。
 理由の一つは、日本人の援助に関する素養が低く、「徹子さん」がやってるような「かわいそうな人」を「助けてあげる」式のものにしか、お金が集まらないから。

 タイにいた時、チャリティで有名なNテレビが難民キャンプに来たことがあって、「絵になる」(いかにもかわいそうに見える)人がなかなか見つからなくて、「もっと痩せた人いませんかね-?」って尋ねられたことがある。
 で、「お-い、誰か痩せた奴知らないか-?」って難民の人たちに聞いたら、どこそこのあいつがいいんじゃないかってことになって、彼らも胸をなでおろしてたよ。
 どういう番組になったのかは知らないけど、恥ずかしながら僕自身、そういう「協力」をしたこともある。

 もちろん「徹子さん」がやってる事は悪い事じゃない。
 洪水とか旱魃とかの緊急避難時にはそれがうまくあてはまるし、何より関心をもってもらう事が相互理解の第一歩だという面もある。
 だけど、一方では、その活動がある種の誤解や、
自分のライフスタイル否定にもつながる根本的矛盾に対する無理解を生じさせてしまうという点は、否定できないんじゃないかという気がする。

 それともう一つ、もっと巨大な問題としては、根本的な情報不足と公的機関関係者の人数不足、勉強不足がある。
 大使館やジャイカ(国際協力事業団)の人たちなんて、全く民衆とはかけ離れた貴族みたいな生活してるし、
マスコミの駐在員や「研究者」と称する人たちの多くも、ほとんどその国の首都以外のことなんて知らないんだから。

 ODAの3分の1を「シャプラニ−ル」のようなソフト事業に切り替えたら、
海外青年協力隊や各種のNGOとのリンクが可能になるし、21世紀の人材育成という意味でも大きな成果が期待できる。
 日本もODA拠出金額に見合った、感謝や尊敬を受けるような国になれると思うのだけれど。



 帰りは6時間遅れの列車でダッカまで戻った。
 戦後の買い出し車両みたいな感じ。屋根の上まで何十人もの人が乗ってる。
 皆、村を捨てて都会に集まるんだろうな。

 村での生活は、一言で言って楽しかった。
 一人にしてくれ-、 「普通の男の子」に戻してくれ−とはしょっちゅう思ったけど。
 それと、3食カレ−なのにはまいったよ。
 カレ−は大好きだけど、40回も続けては食えないよ。
 色々、種類あるのは分るけど。

 で、ダッカに着くなり、あの、日本援助でできたホテルまでダッシュして、サンドイッチ注文し、コカコ−ラを飲んだ。
 (口ほどにもない矛盾した男でしょ)


 翌日の夜、ダッカから、やはり陸路でカルカッタに向かった。
 舟の上から見たガンジス川の朝日は、バングラデシュの国旗そのもの。
 一生で見た最も美しい光景の一つだった。

 で、カルカッタに着いたら、そこが、ものすごく綺麗で健全な大都会に見えた。



「世界の街から」とびらへ

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