井戸さんが井戸掘り(東北タイ/スリン県 1984) 


   



 松下政経塾の3年目に、半年間の海外研修があった。
 英語うまい奴は欧米の大学や研究期間、政治家志望の奴はどこかの国の政党や代議士のところで勉強させてもらうのが常だったのだけれど、僕はアジアの農村に行ってみたいと思った。

 まあ、20代の時にしかできそうにない事をやってみたいという気があったし、カッコつけて言えば、アジアの民衆の側から、ミクロの世界を通して、国際社会を眺めてみたいという気もあった。

 対外援助の民衆への影響、とりわけ自給自足的な生活をしている人たちが、海外からの援助や商品経済の波からどんな影響を受けるのか。
 ミクロの視点から見た東西・南北問題って一体何なのか。
 せっかく半年も滞在するのだから、英語以外の言葉をマスタ−したい。

 そんなことを考えて、僕は研修先をタイ・カンボジア国境に決めた。

 当時の彼女はけっこう心配してくれたな。
 だって、当時はタイは気楽に遊びに行ける国っていうイメ−ジじゃなかったし、カンボジア国境はアジア屈指の「紛争」エリアと目されていたから。
 友人の多くも、「弾丸の中をかいくぐってボランティアみたいなことやるなんて、なんて物好きな奴」って感じだった。


     
 

 でも、案ずるより産むが横山やすし。
 毎日はいたってのんびりしたもの。
 「紛争」について尋ねても、「4-5年前に弾が数発ふってきた事があって、牛が一匹死んだ」という程度。(トップ右の写真は「名誉の戦死」を遂げた彼の骸骨)
 僕がいた半年間にもベトナム軍によるシアヌ−ク派「越境」攻撃(と称するもの)なんかがあったけど、要するに兵隊同志が出会い頭に銃を抜いたみたいな話。その時は、ヘリコプタ−が飛んでたので、村の人たちと「お-い、戦争が始まったんじゃね-か」なんて笑ってた。
 でもそれが、翌日の世界中の新聞にけっこうデカデカと載ったりするんだよね。
 で、住所になってる所に山のような「心配のお便り」が来たりした。
 「ついに恐れていたことがおこりました」とか。

 だってタイにいる海外特派員なんて、どのマスコミも、バンコクに1人ずつくらいなんだもの。
 1人でフィリピンから、インドくらいまでカバ−している人もいる。
 これじゃ、軍か何かからの情報を、見てきたみたいに伝えるしかないよ。
 情報って恐いよね-。ホント。

 まあ、一定の緊張感が全くない地域ではない事は確かなんだけど、実際は、村によってはカンボジア兵士が山(国境)越えてやってきて、ソバ食って帰ったりしてるんだもの。
 とはいえ、この地域の村が、タイの中で最も貧しい所である事は間違いない。

 左下は、住んだ所の近くにあったクメ−ル遺跡。民族的・文化圏的にはこのあたり、タイとクメ−ルのチャンポンって感じ。村にはタイとクメ−ル語のバイリンガルがけっこういる。
 で、村はだいたい右の写真のようなとこ。もちろん、電気もガスも水道もない(少なくとも当時は)。

    
  
  
 さて、そこでの僕たちの仕事は、日本の某NGOの一員として、東北タイ(スリン県、ブリラム県)の「タイ被災村」と呼ばれる村に衛星井戸を掘ることだった。
 タイ人2名、日本人1名の仲間とともに、4つの村で13本の井戸を掘った。
 で、僕たちの活動には、だいたい次の3つの特徴があった。

 その1:村には便所がないので、従来の掘りぬき井戸では人や牛の汚物が地下混入する事が多く、色んな病気の原因になっている。
    で、実際の井戸の建設や説明会を通して、公衆衛生への関心を高めていく。
 
 その2:井戸を掘るのは僕たちではなく村の人。
    皆で協力して掘るなら資材と技術を提供するというのが僕らのスタンス。

 その3:簡単な道具以外はできるだけ使わない。
    基礎的な技術を伝え、村人自身による生活改善の動機づけのような事をしていく。 

 で、とりあえず以下に、その工程についてご説明。

 (1)村長と交渉、説明会を開催する。右は説明会に使用するボ−ド。
 その一番右が井戸の設計図。で、同じく3枚目で、なぜ今までの井戸がよくないかを示している。

   


 (2)掘る場所を決める。後々もめないようにしないといけない。 (3)支柱を立て、滑車をつける。 

           


 (4)掘りだし組とかきだし組に分かれ、掘っていく。場所にもよるが、まあ4-8mくらい。

     


 (5)だいたい3-4日から1週間で水にたどり着く。ガキどもも興味津々。

  


 (6)底に砂や砂利を敷き詰めたあと、セメントリンク(左写真手前)を積み上げていく。

 
 

 (7)まっすぐに積み上げ、セメントで固定。砂と砂利で周囲を埋める。

   


  休憩中の風景。皆、いい顔してるでしょ。
 
   



 (8)井戸の周囲に砂利を敷きつめ、セメントでプラットホ−ムをつくる。周囲からの汚物混入を防ぐため。

  


 セメント部隊も頑張る。     (9)何度か水抜きや水質検査をおこない終了。完成までは1週間から10日くらい。

              




        (10)で、 水が出た!!
                      




 とまあ、ここまでを読んだだけなら、ずいぶん立派な事をしてきたような感じかもしれない。
 確かに、個人としては何物にも代えがたい、とても貴重で面白い体験だった。

 でも僕は、実は、いろんな人の「援助」を受けての仕事として、これは一体どうなのかな-といつも悩んでいた。

 以下は、一種の内部告発みたいだけれど、懺悔の気持ちを交えて書いてみたい。



 井戸掘りの全工程の中で、僕たちの役割は、単なるアドバイザ−か現場監督のようなものに徹する事だった。
 もちろん、機械を使って井戸を造って「あげる」のも可能だけれども、それでは村人たちによる自立や生活改善努力の芽を摘み取ってしまう。
 しかも、次に書くような理由で、国境の村は援助の集中地と化しつつあった。
 「あげる」事が「依存」を生む。実は国境の村には、そんな言葉が決して大袈裟ではない状況が現れつつあった。

 僕たちが活動していた地域は、タイ政府によって、「タイ被災村」(アフェクテッド・タイ・ビレッジズ)と呼ばれていた。
 難民の流入や国境での共産党活動による被害を受けた村、というくらいの意味だろう。

 だが実際には、この概念は次の様な政治的背景を持っていた。

(1)かって、難民の大量流入で、タイには多額の海外援助が送られてきた。
(2)国境の難民キャンプが国際救援の脚光をあびると、多くの人の目に明らかになったのが、キャンプよりはるかに貧しい国境の農村の存在だった。
(3)一方で国境では、当時カンボジアの政権を握っていたポル・ポト軍と手を結んだ共産ゲリラの活動が活発化していた。
(4)貧しい農村を開発する一方で、国境部への開拓農村の設置が急がれた。

 つまり、「被災村」とは、そのような海外からの難民向け援助をあてこみ、農村開発と防衛政策を実行するための「概念」だったという訳だ。

 さっきも触れた様に、これら「被災村」の多くは、タイでも代表的な「被援助村」になりつつあった。
 左下の写真は日本援助の「日の丸入り」シ−チキン缶詰。
 ある村では、西ドイツからの援助で、バンガロ−風の住宅が80軒も「与えられ」ていたりした。(右)
 「ユニセフ」と書かれたシャツを着て帰宅した子供が、「インタ−ナショナル・クリスチャン・エイド」のTシャツに着替えて遊びに行く光景に出くわした事もある。
 何ヶ月か前に活動した村を再訪すると、簡易水道が敷かれていたり、僕たちの井戸とほとんど離れていない所に新しい井戸ができていたりという経験もした。

    



 で、村の人たちは自給自足をベ−スにした共同生活を営んでいる。
 田の多くは二期作も可能だが、そんな色気は全く見えない。
 「現金が必要ならプラサ−トかブリラム(いずれも近郊-といっても数十キロ離れてるけど-の街)に鶏や豚を売りに行けばいい。別にこれで生活していけるから。」
 自給自足ゆえの豊かさとでもいおうか。
 ともかくみんな人がよく、ゆったりと、にこにこして暮らしている。
 独自の文化と、当然といえば当然の価値観に裏打ちされた、明るくほのぼのとした人間空間があった。

 だがその一方では、集中的に行われ始めた援助によって、村人たちの「期待」感や「依存」心は確実に刺激され始めていた。
 努力なしに手に入る豊かさや便利さが、彼らの目前には常にちらついていたからだ。

 さらに。
 彼らが商品経済の末端に、それも極めて不利な形で組み込まれる日も近づいてきていた。
 軍事上の要請もあり一直線に整備された国道を使い、トラックを持つ華僑商人やコカコ−ラなどの大資本が、村にも訪れてきつつあった。
 「父親に酒を飲ませ500バ−ツ札を握らせては、子供を都会に連れていく」(某村の村長の弁)、人買いも横行していた。
 やがて電化され、テレビが入ると、村から出て行く若者たちが激増するのだろう。
 ヒドイ事かも知れないし、いい面や仕方のない面もあるのかも知れない。
 いずれにせよ、タイ人でもない第3者が、手を加えるべき話じゃないんじゃないか??

 でも、まぎれもなく僕らは、こうした一連の流れの中で、一定の政策にのっとり、村に「モノ」を持ち込む当事者として存在していた。


 確かに僕たちの活動は、日本政府が行ってきた大規模援助などに比べれば、はるかに「マシ」なものだった。
 周辺にも、給水や灌漑にほとんど役に立っていない「貯水池」が、血税を使った日本政府の援助で造られていたりした。
 村人の協力により、その「ベ−シック・ヒュ−マン・ニ−ズ」を満たすため、「適正」な規模の支援をする。
 僕たちの活動はどの村ででも「歓迎」され、その「ニ−ズ」がある事自体は明確だった。


 だが、少なくとも僕は、自分たちが関わらねばならない「本当の必要」と、その関わり方について、最後まで確信が持てないでいた。
 「ベ−シック・ヒュ−マン・ニ−ズ」と「ツ−・マッチ・エイド」の境目って一体??
 水不足による死者をなくす事なのか、村に一本の井戸がある事なのか、どの家からも20メ−トル以内に井戸がある事なのか??
 モノのない所で自給自足なり(自給自足ゆえ?)の「豊かな」生活を営んで来た人々に、(モノや便利さをちらつかせる事で)結果的に自分たちのパタ−ンを推しつけずにすむ範疇はどこまでなのか。
 僕は全く確信が持てないまま活動を続けていた。

 同じ事は技術や規模の「適正さ」についてもいえた。
 彼らに必要な「適正さ」って一体??
 僕には最後まで、全く回答が出せなかった。


 村の未来像は村人たちや、そのリ−ダ−によって描かれるのが理想的だ。
 いたずらに進歩を押し付けるのも、彼らは今のままでいいと考えてしまうのも、所詮は第3者のエゴイズムやマスタ−ベ−ションみたいなものに過ぎない。
 だが、現実には、タイにはいわゆる地方自治(的なもの)はない。
 村人はもちろん、村のリ−ダ−たちの教育水準も低い。
 民族性もあるだろうが、村長たちも全くといっていい程、先の事など考えていないのだ。
 7人の村長に「10年先の村がどうなればいいか」とインタビュ−してみた結果も、「分らない」「仮定の事はどうも」といった答ばかりだった。

 長期的な視野にたって村人の幸福を考えれば、やがては僕たちのような「草の根」支援だけじゃなく、進んだ技術や大型援助も必要になっていくのだろう。
 だが、民衆の生活と多くの援助担当のエリ−トとのギャップは、あまりにも大きい。
 「上から」の援助が、彼らの本当の「ニ−ズ」を満たすのは、多分、至難の技といえるだろう。


 につけても、彼らにとっての最上の未来っていったいどんなもの?
 農民の視点に自らを近づけるほど、僕は「あるべき」関わり方を断言できない立場に追い込まれていった。



 で、もう一つの懺悔。
 それは日本の人たちに対してだ。

 僕たちの活動は、某TV局のチャリティ番組などからその資金を得ていた。
 「アジアの子供たちに水を」というのが、そのキャッチフレ−ズだ。

 「世界には水も飲めないかわいそうな人たちがいる」と思わせるかのような宣伝文句に引かれ、夏休みの子供たちがなけなしの小遣いを寄付してくれていた。
 事実は、水はあるけど、衛生さに欠けていただけだ。
 それに僕はある意味では、ここの子供たちより日本の子供のほうがずっと貧しくて、よっぽどかわいそうだと思っていた。

 で、飲むたびに「誤解を助長してどうする」と荒れる僕に、
元学生闘士のプロのボランティア(?)たちは、「それも啓蒙の一歩なんだ」っていいつつ、プ−ルつきのマンションで暮らしていた。
 NGOやNPOが素晴らしい、みたいな言い方にも誤解が多いと思う。


 もちろん、立派な人もいっぱいいた。
 例えば、僕の一週間後に渡ってきたHさんっていう医者の人だ。
 先日、そのHさんが、純粋に医者として「あれから」16年間も現地での活動を続け、会の代表になっていた事を、新聞で知った。

 多分、時代も進み、色んな改革があって、学生闘士諸君は身を引く事になったんだろう。

 だいたいHさんは僕などとは持ってる技術(彼らにとって役立つという意味)が違う。
 でも、捨ててきたものはもっと違ったかも知れない。
 彼はいくらでもあった筈の選択肢の中から、今も救援活動に人生を賭けている。

 文句言って辞めた奴や、自分の「癒し」のためにボランティアやってるような奴、
僕を含めて「腰掛け体験」してただけの奴もいっぱいいたけど、
なつかしい顔を記事で見て、
僕らが全く足元にも及ばない、素晴らしい人もいるんだって事を思い知った。

 きっと、僕みたいな「ヤングマン」を何百人も相手にしてきたんだろうな。
 Hさん。
 絶対にこの人には勝てないと唸った人の一人だ。



 タイトルの「井戸さんが井戸掘り」は、実際に某新聞社が記事を書いてくれた時の見出し。
 でも、何なんだよ、この見出しは?
 川中さんが溺れたら、「川中さんが川の中」って書くのかよ--。
 じゃ、山中さんが遭難した時は?
 馬場さんがトイレ行った時も決めつけるのかよ--。



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